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「私」の分かりと、いわゆる物自体について(第3章第2節ー1)

「私」は事を分かっています。そして、事を分かるのは「私」です。それと同時に、自然は「私」に分かられるのです。

 事を分かること、つまり体系化することにおいて、「私」の自然が自在します。つまり、内的な分かりを超えてその事を分かりきろうとする傾向そのものが、どこからきたものなのか分からないのです。

 ただ、そもそも、「私」とは何でしょうか? 事なのでしょうか? どのように世界において存在し、または存在するようになり、かつ世界や自然とかかわっているのでしょうか?

 この問いを答えるに際しても、やはり帰納的な推論を行うべきことになります。

「私」による言葉の使用の仕方

 「私はこの番組が嫌いだ。」「黒幕は私だ。」には、「私」が表れています。
  明示的に私という語が使用されていなくとも、つまり、「このそうめんはおいしいな。」とか、「今日は夜空が綺麗だ。」とか、「ロシアがウクライナに侵攻したが、今では膠着状態に陥っているみたいだ。」にも、「私」が表れています。これらは全て、「私」が分かったことだからです。およそ言葉の使用は、すべて「私」による言葉の使用です。

  このように、「私」が外的に事を分かるためには、つまり、差異を明らかにするためには、「私」は、あらかじめ内的に分かりうることを当然のように分かっていなければなりません。

  上の例で言うと、そうめんというものは、食べるもので、白い細麺であり、つゆをつけて食べたり…などというふうに内的に分かることになります。
  また、「おいしい」は、食べたときのあの快楽などというふうに内的に分かることになります。
  さらに、「この」「は」「な」も、「私」は、内的に分かることができます。 

  「私」は、上記全ての単語を当然に分かっていて、だからこそ、現にそうめんを食べた際に、「このそうめんはおいしいな。」と外的に分かることができるのです。  

  にもかかわわらず、少なくとも日常的な言葉の使用(いいかえれば、天然事としての言葉を使用した、事の表現)においては、当の言葉は、「私」が創作したものではありません。
  「私」は、「私」のために用意されていて、自然に分かっている言葉を、さも「私」自身の言葉であるかのように使用しているだけなのです。

  しかし、後述のように、このように「私」が言葉を使用していること自体が、「私」を世界において存在せしめている根拠になるのです。

「私」はいかに分かることができるのか

  そもそも、「私」はどのようにして事を外的に分かることができているのでしょうか?

  この問いを、いわゆる認識論上の問いとすることは、ここでは意図されていません。
  認識論においては、大まかに言えば、「私」に対象についての認識の能力が(アプリオリにであれ、アポステリオリにであれ)備わっていて、それがどのように作用して対象認識が成立しているかが問題とされます。
  このような認識論は、今では、もっぱら脳科学や心理学が研究対象としているもののわけです。そのため、今この場でこのような認識論を論じても、言葉遊び以上のものにはならない、と考えられるところです。

  むしろ、ここでは、「私」のために用意されていた言葉と目の前で起きている事との関係、いいかえれば、このように用意されていた言葉をどのように「私」は使用できているのか、を問うことが意図されているのです。

 名前による分かり「以前」に、何かがあるというべきか

  まず問題は、「私」が名前をもって事を分かる以前の何かがあると考えるかどうか、です。いわゆる、感官に与えられる多様なものとか、物自体とかといわれるものを許容するかどうか、ということです。

  ここで、以前というのは、論理的に前ということであって時間的に前ということではありません。ただ、論理的に前ということを、日常の言葉の使用から帰納することは、不自然ですし、不可能です。  

「ある」の意味

 そもそも、このような何かがある、というときの「ある」とはどういうことでしょうか?

  「ある」が、この文章における、存在するという語であるなら、このような、いわゆる認識以前の何かは存在しない、ということになります。
  なぜなら、存在するのは事のみであり、事は他の事との関係(世界)においてのみ意味あるものとして存在するのであって、事以前のことやものは存在しえないからです。

  ですから、結局、「私」が名前をもって分かる以前に何かがあるかどうかは分からないが、少なくとも存在しない、ということになります。これは、日常的な言葉の使用上、このような何かが表れることがないことからも分かります。

分かる前にあると想定される何かに対し言及することの当否

  このような何かについては、いっさい語らない、という方向もあるかと思います。

  他方で、たしかに日常的な言葉では表せないものの、創作事としての言葉を用いて表すことはできますし、今までもこの文章はそうやって書かれてきているのです。

  もっと言えば、少なくとも哲学というものは、創作事としての言葉を用いて自然を分かることを内容とするものなのです(物自体が想定されたのも、創作事としての言葉により自然を分かろうとする試みだと言えましょう。)。

分かる前に想定される「何か」の自在

  では、「私」が名前をもって事を分かる以前の何かがあるというときの「ある」を、自在の意味に取るべきなのでしょうか? 

  このような何かが自在するというと、自然をあたかも対象化されうるものとして捉えたうえで、この何かが自然に包摂等されているのだ、などと捉えることになるかもしれません。しかし、対象となりうるのは事だけですから、正確ではありません。

  つまり、端的に、分からないのであれば自然が自在している、でいいのです。
  逆に言えば、分かるものにおいては、それ「以前」の何かは、存在もしないし、自在もしないのです。

  次回は、このことをより具体的に述べていこうと思います。

 

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