事の分かりと自分(第3章第3節ー2)
前回に引き続き、私が天然事をどのように分かるのかから議論を始めます。
「私」の事の分かり方(続き)
天然事の分かり方
技術事や創作事と異なり、天然事は、「私たち」が作ったものではありません。
ただ、「私たち」がそれを指示する名前を言葉において用意したと想定できること自体は、同じです。
つまり、天然事であっても、「私」は、あらかじめ決められているその名前によってそれを名付けて、その事が存在するということにしているわけです。
ただ、このような分かりがトートロジー的ではない、という点が、技術事や創作事と異なっているところです。
つまり、まず、「私たち」が作ったわけではない事に「私たち」がとりあえず名前を用意して、それを日常的に使用し、その使用の蓄積によって意味が定まり、いいかえれば、その名前により名付けられうる事を内的に分かるようになった(世界化した)と想定できるわけです。
そして、だからこそ、そのように名付けられ、外的に分かられた事には、分かりきろうとする(体系化する)余地があるのです。つまり、内的に分かる限度を超えると、分からないという事態が生じるからこそ、外的に分かるに際して、世界度を100%に上げようとすることができるのです。
技術事や創作事においては、分からないという事態はありえません。
事の分かりの範囲
このように、「私」の世界は、言葉の世界です。名前によって名付けられる事の連関が世界なのであって、それ以前の何かは、存在することがありません。
ちなみに、自然の自在は、「私」が想定することです。逆説的ですが、自然は、「私」なくして自在しないのです。
ところで、「私」が目の前の事(ふつう、天然事、技術事、創作事が複雑にからみあっているものですが)を分かるとき、内的な分かりにとどまったり、あるいは外的に分かりにいったりします。
「私」の態度によって、分かる程度に差が出るのです。
たとえば、住み慣れた街の、毎日通る道にあっては、そこで目にするすべてのことは、内的に分かるに過ぎないでしょう。つまり、あの歩道橋は、辞書的な意味以上の意味をもたない事として名付けられるでしょう。
対して、初めて来た異国の街の風景などは、外的に分かることになるでしょう。目の前に存在する事は何なのか、いちいち名付けることになるからです。
このように、事を名付けるときに、内的に分かるにとどまる場合の「私」の態度を、慣れている、といいます。
「私」による「私」の分かり
ところで、以上のように事を分かる「私」自体は、存在する事なのでしょうか?
また、事は、「私」が存在するものとして名付けなければ、存在しないことになります。他方で、事は、「私」とは無関係に存在しているようにも見えます。これはどういうことなのでしょうか?
あるいは、「私」は自然なのでしょうか?
分かりの主体
「今日はうどんを食べた。」など、なんでもよいですが、このようにすでに分かっている事を「私」が言葉にするとき、つまり事を分かるとき、その分かりは必ず「私」の分かりであって、「私」以外の何かの分かりではありません。
○○らしいなどのうわさをするのでも、隣の芝生は青く見えるなどの慣用句を使ったのであっても、東京の今日の最高気温は22度だ、などという事実の伝達であっても、同じです。
それらをもって事を分かる限りは、それを言葉にする(又は言葉として受けとる)「私」が前提とされているのです。
つまり、「私」は、目の前の事を分かることによって、自らを分かっているのです。いいかえれば、「私」は、目の前のことを分かりつつあるのと同時に、自らを、世界において存在する事として分かったことになります。
このような、世界において存在する事としての「私」を、自分ということといたします。
そのため、自分は、事を名付けるための名前の連関の総体、つまり言葉の世界において、はじめて存在しえるものだ、ということになります。
言い方を変えれば、自分は、世界において有る名前の一つにすぎません。
目の前の事と自分としての「私」とが表裏一体であること
具体的にいいますと、たとえば、「私」は本を読んでいるとします。このとき「私」は、その本がつまらないものであるときは、その字面を眺めて文字を認識しているのみでしょう。あるいは、その本に没入しているときは、何らかの情景を思い浮かべているでしょう。
要するに、「私」は目の前の事を分かりつつあるのであり、分かりは必ず言葉による分かりである以上は、「私」は、言葉による名付けによって目の前のことを存在させていることになります。
他方で、「私」は、それと同時に、自分を分かりつつもあるのです。つまり、ここでは、字面や情景等を分かることから、当然に、それらを分かりつつある「私」(自分)を分かることになるのです。
このように、自分は目の前の事なくして存在しえず、目の前の事も、自分なくして存在しません。このように、存在における文脈においては、事と「私」とは、互いに依存しあっているといえます。「私」がいてはじめて、事があるのです。