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事の外的な分かりと、分からないという事態があったこと(第3章第1節ー3)
前回の続きで、①目の前に有る、このパソコンという事がどのように分かるのか、つまり、パソコンを外的に分かってみるのと同時に、②その際、分からないという事態は生じないのか、③生じたとして、言葉において分からないとされたこととどのような関係があるのか、調べてみましょう。
このパソコンは何でできているか(①)
事を外的に分かるためには、内的な分かりの中には含まれない性質(これを差異といいます。)を分かる必要があります。
いろいろな差異を描写することができますが、ここでは、日常的に自然という言葉が名付けられているあり方をもとに、このパソコンが何でできているかを見ることにします。
このパソコンのフレームは、金属ではなく、白のプラスチックで構成されています。このプラスチックは、もとをたどれば、中東などで採掘された原油を原料にしています。
もちろん、いつどこで採掘された原油を原料にして、いつどこでこの形のプラスチックに成形されたかについては、具体的に調べることは実際には不可能です。しかし、それはどうでもいいことです。確実に、ある時点ある場所で、まさにこの形に成形された、ということが分かれば、それだけで必要十分なのです。
そして、この原油は、少なくとも地中に埋蔵されている段階では、自然である気がします。
このパソコンの内部の金属部品等や、ところどころ傷や汚れのついたこの液晶など、あらゆる部品について同じことがいえます。
にもかかわらず、プラスチックもその他部品も、ひいてはこのパソコンも、自然ではない気がします。
つまり、言うまでもないことですが、自然な気がするものに手が加えられたことで、自然ではない、つまり不自然な気がする物になったのであり、他方で、世界において、プラスチックやら金属部品やらパソコンやらとして名付けられるべき物として存在するようになったといえます。
分からないという事態は生じているか?(②-1)
なぜ石油や金属等は自然である気がするのか。それは、なんら手が加えられずに存在するからです(自然という言葉の1の意味)。
「私たち」は、これらを分かっているものとして日常会話で使用しています。さらに、歴史的には、石油や金属も含めて万物を様々な仕方で分かろうとしてきました。神や天が与えたものとしたり、万物の起源は水とか火である、などの教義です。あるいは、物質は原子や分子のかたまりないしその相互作用だとの理論です。
したがって、石油や金属等は、日常的な名前として用いられる限りにおいて、分かっています。そして、このような教義的又は理論的な定義づけによって表される限りにおいて事であり、分かる事です。そして、分かった気になってはいるが言葉によって表されえない限度では、分からない、つまり自然です。
というのは、事によって、時代によって、あるいは各人の知識量によって、分かる限度(世界度)は異なるからです。
石油は、その道の研究者にとっては、世界度はいわば100%ということになる(厳密には、する)でしょう。対して、化学を学んだことがない人にとっては、通常、内的に分かる以上のことは分からないということになるでしょう。
このような、ある者にとっては世界度が100%になるという場合は、その事は分かりきっている、と呼ぶことにします。
その事について分からない人も、ある理論を学べば分かる事にできるわけですから、分からないところはないのと同じと考えるのです。
つまり、石油や金属については、自然な気がしますが、この文章でいう自然ではありません。
分からないのは、「私」と「私たち」?(②-2)
他方、分からないことが2つあります。
一つは、石油や金属がなぜ、どうやって世界において存在するようになったか、です。これについては、第3節で扱われる予定ですが、軽く触れておくと、「私たち」が、石油や金属などを言葉の中に導入し、世界に存在することにしていた(これを世界化と呼びます。)と想定されるところです。
いわば、0から1にする場面の話です。
もう一つは、石油や金属についての内的な分かりを超えて外的に分かろうとすること、世界度を100にしようとする傾向そのものです(これを体系化及び体系化傾向と呼びます。)。いわば、1から2,2から3・・・にする場面の話です。
すなわち、石油は火をつけたら燃えるとか、最近のOPECの減産合意のせいで価格が高騰しているなどの日常的な分かりを超えて、石油ないし原油とは何なのか、つまり、化学的にみてどのような成分からできていて、どのように生成されてきたのかなどの事柄について、なぜ分かろうとされるのか、という点が、分からないのです。
さきほども述べたように、教義に照らして、又は理論に当てはめれば、その事(石油に限らず、およそ日常で使われる言葉が指示する対象)は何なのか、と「私」は問うことができます。そして、この問いには答えが保証されるわけです。
が、そもそも、それが何なのか問い、そして、答えを保証するところの教義や理論を用意しようとするのは、なぜなのか。なぜそれほど分かりたいのか。「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する」という格言もありますが、なぜ知ることを欲するのかは、分からない始末です。
多少紙幅を費やしましたが、実は、このことは次節で論じられることです。というのは、このような体系化は、「私」に自在する自然だからです。
分からないという事態が生じうる事(②ー3)
少し脱線したようですので、あくまで本節で論ずべき事に焦点を当てましょう。
上記の通り、今では、石油や金属は分かりきるようになりました。自然な部分はもはやありません。
しかし、もともとは自然な部分があったはずです。石油が、火をつけたら燃えるものであって、明かり等に使えることは日常的に分かってはいるが、これが何なのか分からない、という事態があったはずです。
分かりきるようになったのは、現代でいえば、化学や地学の理論が石油を定義したことによるのです。
分かりやすい例を挙げると、病気は、原因不明のものが多くありますが、これらは、その限度では自然です(当人にとって最も身近な自然かもしれません。)。しかし、今後の研究で、医学の理論が適切な定義を見出せば、これらは分かりきった事ととなります。体系化されるのです。
つまり、自然な気がする事、つまり、手が加えられることなく存在する事(これによって構成されるものを含む。)は、少なくとももともとは、内的に分かる限度以上のことは分からなかったのです。
この意味においては、パソコンにおいても、分からないという事態は生じていたことになるのです。つまり、その限度以上で自然が自在し、または自在していたのです。
なお、延長をもつ事、つまり物だけが、分からないという事態が生じうる事に属するのではありません。例えば、「寒い」や、「走る」などの用言で表される事も、手が加えられずに存在する事である以上は、これに属します。
さらに、言葉自体もこれに属することになるでしょう。