自分の分かりと人間の自在(第3章第3節ー3)
前回に引き続き、「私」が存在する事なのか、あるいは自然なのかについて論じていきます。
「私」による「私」の分かり(続き)
事としての自分と、自らを分ける主体の問題
前回、「私」が目の前の事を分かると同時に、「私」自らを当然に分かることになる、つまり自分を分かることになる、と論じました。「私」は、分かりを通じて、目の前の事と自らとを分けているのです。
あたかも、ドーナツの穴と、ドーナツの可食部位とが、互いに互いを存在の基礎としているのに似ています。
ですから、自分は、自分を取り巻く事々(世界)と相関的に存在しているのみであって、いわゆる絶対的な自我として君臨しているわけではありません。
むしろ、ドーナツの可食部位の形が代われば穴の形も変わるのと同じように、目の前の事が変われば自分も変わるのです。
構造主義の根拠はこの点にあると考えます。
普段、自分が不変のように見えるのは、すでに自然に内的に分かっている仕方で、いいかえれば、慣れている仕方で、目の前の事を分かるからです。それが日常と呼ばれるのです。
不変なのは、その実、自分でも目の前の事でもなく、これらを分かるための言葉なのです。
さらにいうと、自分とは瞬間的な事なのです。世界及び自分をその都度分かることで、これらはある。その分かり方が同じなので、いつでも存続しているかのように見えるだけなのです(ただ、ここでは、瞬間という語は必ずしもごく短い時間とは限りません)。
しかし、一つ問題があります。
自分と世界とがこのように依存関係にあるとしたら、つまり、自分が目の前の事よりも「前」に存在するわけではないとしたら、いったい「誰」が目の前の事を、そして自分を分けているのでしょうか?
いいかえれば、言葉を使っているのは「誰」なのでしょうか?
自然としての「私」の独立性
「誰」が言葉を使って目の前の事を、そして自分を分けているのかは、分かりません。というより、分かる事ではありません。
実際、私はあれを見たとか、僕はこうしたいとか言うときの主語は、自分であることを避けられません。言葉で表現された事であり、目の前の事と対峙・依存する「私」であるからです。(念のため申しておきますが、主語が一人称かどうかの問題ではありません。)
自分を分かるところの「私」をある名前で表現することは、言葉が表現可能な範囲を超えているのです。
裏を返せば、そのような「私」は世界に存在しないが、想定せざるを得ない、ということです。
ここに、「私」の自然が自在するのです。自然が分かられるのです。
この意味での「私」を、人間と呼ぶことにいたします。(いままで私という語にカギかっこを付してきたのは、私という語に両義的な意味を込める意図でした。)。
人間としての「私」は事ではありませんので、存在しません。よって、世界にあるものではありません。自分のように、目の前の事と依存関係にも立ちません。このことは、人間の独立性ともいえましょう。
だからこそ、目の前の事と「私」とは、無関係に存在するように感じられるのです(ただ、このとき、存在という語があいまいに使われていることに留意する必要がありますが)。
余談ですが、いわゆる自分探しの旅というのに肯定的な見解と否定的な見解とがあるように思われます。前者は、「私」の自分としての側面を刷新するという点に着目した見解であり、後者は、「私」の人間としての側面は世界に左右されないことに着目した見解だといえるでしょう。
また、独我論も、この後者の見解に立脚するものといえるでしょう。
言葉と、自分と、人間
分かるところの自分と、分かられるところの人間を、第1節における事と自然についての議論を踏まえて、より詳細に論じていきます。
世界から自分を描出する方法
自分としての「私」と世界は、表裏一体の関係にあり、まるでドーナツの穴と可食部位のようだ、と述べました。そして、穴の形を明らかにするには、可食部位の形を明らかにすることが先決です。
ところで、第1節ではすでに、世界と自然について、つまり可食部位について論じられました。
ですから、自分を描出するためには、その記述を、自分についての議論として捉え直すことがなされるべきです。
自分という事と、自分以外の事
事は、天然事、技術事、及び創作事に分類されます。それらはどれも、「私たち」が用意した言葉により指示されることで事たりうるわけですが、その指示対象を用意したのが「私たち」なのかそうでないのか、あるいは既存の指示対象を捉え直しただけなのか、そこに違いがあります。
そして、天然事は、名前以前の自然の自在が想定できる、つまり分からないという事態が生じうる一方、技術事及び創作事は、名前以前の自然の自在がありえない、つまり分かりきっているのです。
自分という事は、天然事であることに異論はないでしょう。というのは、「私たち」がその指示対象を用意したものではなく、名付ける(あるいは、名付けられる)以前に自然に自在していると想定されるからです。ただ、このことはたいして重要ではありません。
むしろ、人間としての「私」が目の前の事を分かり、名付けつつあることが自分としての私の存在根拠となっており、言い換えれば、「私」を自分として分かりつつあることを意味すること、このことが重要です。
目の前のことが天然事であるか、技術事であるか、創作事であるかによって分かり方は異なりますが、いわば、すべて自分をうつす鏡のような働きをするのです。
ただ、天然事、技術事、創作事すべてにおいて日常的に使用される名前は、自分を日常的なかたちでしか分からせません。これらを目の前にする自分自身に「私」は慣れており、分かりきっているからです。
そこで、「私たち」は自分を新たなかたちで分かろうとし、実際、分かってきました。なぜかは分かりません。以前触れたとおり、分かろうと欲するものの、なぜ欲するのかわからないのです(ここに、人間の自然が自在するのですが)。
すなわち、天然事の分かりにおいては、「私たち」がいまだ分からない自然を事にもたらし、言葉へ名前を導入すること、このような営みを自然科学と呼ぶとすると、自然科学が「私」自身の新たな分かりを提供してきましたし、現にしています。
ちなみに、人間という自然自体について新たな分かりを提供する学を、哲学とここでは考えられています。また、一般的には自然科学とは言われない経済学や政治学、マーケティングなども、ここに含まれうるものです。
技術事の分かりにおいては、すでに分かっている事を体系化して、これを用いて新たな事を存在せしめ、言葉にその名前を導入するわけですが、このような営みが工学と呼ばれるわけです。こうやって、日常的な自分についての分かりを超えて、新たな自分の分かりが生じるのです。
そして、創作時においては、既存の指示対象を捉え直して新たな事とすること自体に、新たな自分の分かりの根拠があるのです。
この分かりにおいて、時間的・空間的な分析をさらになすことは可能でしょうが、ここではこれ以上立ち入りません。すでに先人が(視点は違えど)なしたことでありますし、また、同分析により得られるものに大した実用的価値がないと思われるからです。