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事と自然(第3章第1節ー2)

前回のまとめ

事の具体例

 前回、パソコンも言葉も事である、と論じました。

 ここにいう事は、事実といっても構いません。しかし、通常、事実は思い込みや迷信などと対置されるところ、この文章では、事は後者をも含むものと考えられています。

 また、事は、物事というときの事ですので、物といいかえても構いません。ただし、物は、日常においては、長さ、重さ等をもつとされていますので、事のうち、このような性質をもつものが物とされるべきでしょう。

 ですから、例えば、右・左、権利・義務、直線や円、法律、数字、運、水素分子、病気。さらに、暑い、具体的に、泳ぐ、運転する、など、名詞以外で指示される状態や行為。
 これらは、あらかじめ「私」が表現するために用意されていた言葉が指示する対象である以上は、事であって、存在するものです。いわゆる延長をもつかどうかや、真実なのかどうかなどは、事かどうかに関係しません。

 実際、日常では、幽霊や神はいるのかいないのか、という話題は、たびたび日常会話にも出てきます。が、幽霊や神も、事として存在することとなります。その指示対象は、後にまた論じられることになるかと思いますが、因果関係そのものです。

用語のまとめ

 以上をまとめると、事は他の事との連関において存在し、このような連関の総体が世界と呼ばれます。事は、「私」が名前を用いて名付けることで存在し、かつ、分かろうと思えば必ず分かるものです。 
 そして、これらを指示するために用意されていた当の言葉も事で、個々の言葉は名前と呼ばれます。
 逆に言えば、言葉ないし名前だけは、名付けられることなく存在する事です。あるいは、名付けつつあること、名付けることを繰り返すことによって、事として自らを存在させることができる事だ、といってもよいでしょう(死語は、「私たち」が事を名付けるのに用いられなくなった名前だから、存在感を失ったといえるでしょう)。

 ただ、名前を名付けのために用いずに単体で見ると、使用例に限りがないことから、一定の度合いしか分かりません。この度合いを、この文章は世界度と呼ぶことにします。

 対して、このような世界度を超えた事については、自然と呼ばれ、(とりあえずは)分からないものとして分かられることとなります。そして、分からないというのは、他の事との連関の中にないということなので、存在しないことになります。この文章は、自然を自在するものと呼ぶことにしています。

なぜ自然という語が選択されるのか

 ここにいう自然は、無であるとか、神であるとか、そういった表現で言い換えることもできましょう。しかし、この文章は、できるだけ既存の宗教からくる連想を排除したい、との考えのもと書かれていますので、不適切です。

 そこで、この考えを徹底すべく、単体では意味のない漢字である葡萄の葡とか、あるいはカタカナのアとかと名付けるのがよいのかもしれません。

 にもかかわらず、自然という語が充てられたのには、5つの理由があります。

  1. 自然という語が人間の関与のないさまを表していること。

  2. 人間にとって制御できないさまを表していること。

  3. いわゆる本性や本質的などといったニュアンスを含みうること。

  4. あらゆるものを包括したものとして呼称されうること。

  5. 以上の4つの意味が日常会話において表れていること。例えば、「彼は自然と賢くなった。」は1の意味ですし、「自然の力は恐ろしい。」は2の意味ですし、「そう考えるのが自然だ。」は3の意味ですし、自然界は4の意味です。

 1や2の観点からは、自然という語を充てる理由は分かりやすいと思われます。
 3の意味については、第2節で詳論しますが、「私」にとって事が存在するようになったのは、それを名付けるための言葉を学んで、物真似して使用するようになってからです。もとからそれは事ではないのです。いわば、事の本性が自然なのです。「私」が、事をあらしめることで、「私」も人間として存在せしめているのです。
 4の意味については、自然は、世界とは別個のものであるとは考えられていませんし、対立概念でもありません。むしろ、世界と同一なのです。

 以上の理由から、自然という語が採用されました。

自然の探求

 前回は、パソコンという名前について考えたのみでした。このように、言葉ないし名前自体を、名付けるために用いずに、単体で分かることを、内的な、という語で表すとします。
 逆に、事を名付けるために言葉を用いて分かることを、外的な、という言葉で表すこととします。

 パソコンという名前を内的に分かることで得られた性質は、外的な対象をパソコンと名付けたことによって、当然にそれに帰属します。そのようにして、パソコンという名前も、このパソコンも分かっているのです。裏を返せば、敢えて分かることがなければ、パソコンという名前も、このパソコンも、同一なのです。
 たとえば、パソコンはmacOSかWindowsOSかのどちらかである、というパソコンの性質は、目の前に存在する事をパソコンだと名付けた瞬間に、当然にこのパソコンに帰属します。対して、このパソコンはWindowsOSのパソコンである、という性質は、このパソコンをこのように名付けることによってはじめてそれに帰属するのです。

 つまり、外的な分かりは、内的な分かりを包含します。

 では、①目の前に有る、このパソコンという事がどのように分かるのか、つまり、パソコンを外的に分かってみるのと同時に、②その際、分からないという事態は生じないのか、③生じたとして、言葉において分からないとされたこととどのような関係があるのか、次回調べていきましょう。



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