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帰納とはなにか(序論1)
帰納的推論とはどういう意味か
辞書的には、帰納とは、個別的なものから一般的なものを導くことをいい、推論とは、既知のことをもとに未知のものについての知を得ることをいいます(広辞苑第4版参照)。
しかし、ここでは、このような意味でこれらの語は使われません。
帰納について
形式は世界の基礎なのか
人間にアプリオリに備わっている概念、形式、又は論理(大まかに見れば、これらには名づけ方の違いしかありません。)が、経験や、世界ないし私の存在(または、これらを記述すること)を可能にしていると考える道があります。
この道においては、経験から得られた知識は偶然的・限定的なものにすぎないとして退けられます。むしろ、これらを演繹するもととなる、必然的・無限定的なものが記述されるのです。これを、道Aとしましょう。
なお、ここでいわゆる観念論が意図されているわけではありません。これは、アプリオリに備わっているわけではないものも含めて、およそ自我が有する概念がなければ世界は存在しえない、とする立場だと私は理解しています(ここで、世界という語の意味にについて、道Aとズレがあることに注目すべきでしょう。)。
「アプリオリな概念」は経験的である
しかし、時間、空間、因果律、質、量などという概念又は形式は、本当にアプリオリに備わっているものなのでしょうか? 道Aにおいては、そのように考えないとつじつまが合わないから、当然そうだと考えることになるのでしょう。この理は、認識ないし存在まではあえて踏み込まず、記述ないし思考を可能にするものだと考えたとしても、同じです。
この文章においては、上記概念は、「私」にとって外在的なものだと考えます。「アプリオリな概念」といわれるものは、経験的に備わると考えるのです。
にもかかわらず、このような概念が世界や「私」を可能にする、という点には、異論を唱えません。このような概念は、生まれて以来「私たち」が使用していた言語に反映されており、これを「私」は学ぶことで、世界を分かり、そして「私」は分かられたのです。図式的に言えば、アプリオリな概念を「私」に帰するのではなく、「私」の外にある言葉に帰するのです。
なぜそう考えるのかというと、まず、上記のようなアプリオリなものが、論じられるものである、という点にあるのです。それが何であるか論じられるということは、日常的なものではなく(誰が、例えば紙一般について論じる必要を感じるでしょうか?)、かつ対象化できるということになります。
しかし、「私」や「私たち」は、道Aの論者たちも含めて、日常に生きていますし、少なくとも、日常からその生を始めました。たしかに、アプリオリで、形式に関する概念が、経験的な具体的な日常を可能にしているといえます。が、概念は、論者がそれをアプリオリなものとして論じる前に、論者がその日常から見出したのです。その上、アプリオリな概念が対象を可能にしたのに、当該概念が対象化されうるというのは、いかにも奇妙です。
つまり、アプリオリな概念が世界を可能にしている、というのは一個のフィクションであり、しかも、日常という経験から見出されたにもかかわらず、当の日常を基礎づけるという意味で、真なるフィクションなのです。
実際、道Aの主張は、そのように言われればそのような気もするが、そうでないような気もする、という感覚を差し置いて、こうとしか考えられないという風に論じていくという、強引な面をもっています。これも、その主張がフィクションであることに起因するのです。
見出す過程こそ記述しなければならない
道Aは、あたかも、自らの見出したアプリオリな概念こそが世界を基礎づけているのだ、と論じます。その際、見出す過程は隠されるのです。これは、演繹のふりをして帰納していると言わざるを得ません。
そこで、第3章の帰納論では、日常から出発して、当の日常を演繹できるような概念を見出す過程が記述されるのです。これをこの文章では帰納と呼び、この論じ方を道Bとします。
日常から出発する、とはどういうことか。それは、「私」ないし「私たち」にとって、すでに自然に分かっているもの、分かった気になっているものを手引きにする、ということです。
なお、道Aと道Bとで異なるのは、道を進む向きであって、道自体ではありません。また、道Aにおいては、その論者のそれぞれは、自らの道だけが正しいと主張することになるのに対し、道Bにおいては、他の道を排除しない。それもアプリオリな概念への一つの道だ、とするのです。
いわゆる実在論や唯物論か
観念論との対比で、自我と離れて世界ないし対象が存在すると考える立場を実在論とし、また、自我も、世界ないし対象のうちの一つにすぎないと考える立場を唯物論とすると、この文章は、いずれの立場にも立たないことになります。
そもそも、世界という語は多義的です。のちに論じられることですが、「私」(ここでは、自我の言いかえと考えて構いません。)は世界に存在するものではありません。その意味で、唯物論ではありません。
また、「私」と離れて世界は存在しまい一方で、自然は、「私」と離れて自在します。その意味で、実在論ではありません。ただ、アプリオリな概念がまずはじめにあるのではなく、日常がこれに先行すると考えるという点では、実在論ということができましょう。
とにかく、ある哲学的立場を単純化するための、このようなレッテル貼りには、頑として抵抗する所存です。