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パソコンは分かるか?(第3章第1節ー1)
日常的な言葉づかいを手引きにすることは妥当なのか
本章では、アプリオリな概念が見出される過程が記述されます。
その際、序論の通り、当該概念は日常的な言葉に内蔵されていると考える以上、大まかにいえば、言葉が日常を可能にしているということになります。
よって、序論で述べました「日常から出発する」とは、日常的な言葉づかいを手掛かりにするということであり、その終着点は、必ずアプリオリな概念のはずです。その意味で、表題の問いに対しては、妥当だと答えることとなります。
ちなみに、ここでは、いわゆる論理学が展開されることはありません。論理というものは分かるものですから、分かられるものが得られた後、はじめて十分に論じられうるものだと考えるからです。
すなわち、演繹論の主題にはなりえても、帰納論の主題にはなりえません。
なお、ここでは便宜上アプリオリという語を用いていますが、アプリオリな概念は経験的に備わるものだと考えますので、本来不適切です。
そこで、以下では、アプリオリな概念のみを「概念」と呼び、リンゴや涼しさといった概念は、「名前」と呼ぶことにいたします。
パソコンを分かることはできるのか?
次の文を見てみましょう。
この文章は、パソコンを用いて書かれています。この文章は、noteで公開されていることでしょうが、人気のある記事とはならないでしょう。
上記の文は、日常的です。つまり、書き手と読み手は、「この」「文章」「は」「、」「パソコン」「を」・・・という各単語を、その意味を辞書や文法書や使用例等で分かることなく、すでに自然に分かっているものとして使用しているからです。
言い換えれば、これらの語は、「私」が介入する前から所与のものとして存在しており、「私たち」の言葉のうちに「私」のためにあらかじめ用意されていたのであって、「私」はこれを借用ないし物真似して使ったに過ぎないのです。
では、ここで少し、パソコンという名前を分かってみましょう。
広辞苑第4版によると、パソコンとは、パーソナルコンピューターの略で、個人が専有し、小規模の利用に供する小型の電子計算機をいいます。
そして、ここにいう個人とか、専有とか、電子計算機とかの単語を辞書で調べることができ、さらに、その辞書的意味の中で使用されている単語を辞書で調べることができます。このように無限に調べることができ、もはやパソコンを分かることができなさそうです。
たしかに、辞書で調べることが分かることであるとは限りません。「私」がパソコンというものを分かっていているとき、パソコンの辞書的意味を分かっている、ということを意味しないからです。
むしろ、分かるためには、日常的に分かっていることを、日常の使用例に即して言葉にしなければならないというべきでしょう。そもそも、辞書的意味は、パソコンという語の使用例の蓄積から決まっていくものです。
とはいえ、使用例にも限りがありません。「私」は、あの身近なパソコンさえ分かりきることはできないのでしょうか?
「パソコン」は、分かりきらないものである
パソコンという単語は、分かりきることができません。こう答えることになります。
しかし、パソコンは分からない、というわけではありません。パソコンに限らず、「文章」も「は」も「、」も「を」も、言葉である限り、どれも分かりきらないのです。
そこで、たとえば、「樹脂又はガラスでできた液晶ディスプレイを有し、キーボードによって文字を入力するもので、内部に○○という部品をもっているものをパソコンと定義する」としましょう。この定義に当てはまる物のみがパソコンだ、というふうにするのです。すると、パソコンという語が分かりきるかのようです。
しかし、このような定義は日常で行われるでしょうか?
ものを分かるためにこのような方法は有効です(これは、演繹論に属する問題です)。が、先と同じことですが、定義に使用される各単語もさらに定義可能なものとなってしまい、やはり限りがないという点は解決されていません。
言葉は、このように、ある一定の度合いまでしか分かりません。しかも、その度合いも、「私」が誰かに依存します。
分かるのは、「その」パソコンである
「私」は、目の前のその物をパソコンと名づけます。そのとき、その対象が世界においてパソコンとして事実的に存在することとなり、「私」に自然に分かっている度合いに応じて分かりうるものとなります。それだけでなく、そのパソコンに特有な性質(例えば、core i5だが買って5年経ったので処理が遅いとか、キーボードにコーヒーの汚れがあるとか)を、他のパソコンとの差異として名づけることとなります。
つまり、言葉を分かろうとしても、同語反復となるだけで、何もわからないのです。言葉は、世界において事実として存在するもののために存在し、言い換えれば、その物が「私」にとって分かっているものとして存在するために「私」の関与なく用意されていたのです。
そして、パソコンという語の使用例に限界がないことこそが、そのパソコンという語をどのように分かることができるのかを表しているのです。
つまり、世界において存在する物は、言葉の上で、他の存在する物の名前との関係においてはじめて存在するようになる。
また、名づけることで、物は、「私」が言葉の上で分かる度合いに応じた性質をもつ物として存在することとなり、当該性質も、さらに、他の存在する物の名前からなるのです。しかも、その名づけ方は、名前としてすでに決まっているのです。
「存在する」と「自在する」
このように、他のものとの連関においてはじめて存在するものを事と呼び、このような連関を世界と呼ぶことにします。逆に、世界における事は、世界自体も含めて、存在するもの、または有るものです。
言葉も事であり、世界において存在するものです。次節で論じますが、パソコンだけでなく、たとえば、心も、助詞の「は」という語も、存在する事です。存在とは、いわゆる延長ではなく、事実だからです。
これに対し、分からないこと、ないし分からないものを自然ということとします。自然は存在しません。他の事となんら連関をもたないからです。むしろ、自然は自在します。
このような自然というものはあるのか、という問いは、そもそも問い自体ナンセンスです。自然は分からないのに、分かる事であると前提されているからです。
上記の例でいえば、パソコンという語を分かりきることがありません。どの言葉も同じです。ある一定の度合いを超えると、分からなくなるのです。このような分からないという事態そのものを、自然と名づけるのです(ここに、実は、一つの矛盾があるのですが。)。
このとき、自然が分かられるのです。
事は、目の前の事ですから、分かるものです。言葉ないし名前を通して分かるように用意された事、つまり分かっている事なのです。