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推論とはなにか(序論2)

 序論1の通り、推論とは、既知のことから未知のことを知ることとされます。しかし、ここでは、すでに自然に分かった気になっているものを分かり、それと同時に分かられるものを知ることを推論と呼ぶこととします。

すでに自然に分かった気になっているものの摘示と疑念

 すでに自然に分かった気になっているものは、「私」あるいは「私たち」の使用する日常的な言葉から抽出され、摘示されることになります。アプリオリな概念というものは、いわば言葉に内蔵されていると考えるからです。
 そこで、このような抽出・摘示が、後々の推論の先取りになっているのではないかとの疑念が生じるかと思います。
 
 実際、摘示可能な言葉の使用例には限りがないのに、その一部だけ取り出して、何か一般的な概念を見出そうとするかにみえるわけですから、この疑念は正当です。

 これに対しては、二通りの反論ができます。一つは、言葉に含まれるアプリオリな概念を見出すのに、すべての使用例を網羅する必要はない、というものです。比喩的に言えば、地に埋まっている恐竜の化石を特定するためには、その全体を掘り起こさなくても、特徴的な部分さえ露わにできれば足りるのと同じです。
 もう一つは、まえがきにも書いたことですが、まさに使用例の選択にこそ、その論者の動機・目的が表れる、ということです。何を問うか、とは、何を摘示するか、なのです。逆に言えば、ここに、この文章の強引なところがあります。これは認めなければなりません。ただ、強引さがなければ、論じられるものも論じられないのです。その代わり、別の動機・目的を有する者の議論をも、一つの正当な議論として許容するのです。

「分かっている」と「分かる」と「分かられる」

 分かっているとは、言葉の上で、すでに日常において分かれて用意されていることをいいます。卑近な例でいえば、トイレットペーパー、画用紙、光沢紙などは、言葉の上ですでに分かれていて、分からなくなることはありません。そして、だからこそ「私」はこれらを説明なく口にし、「私たち」もその意味を分かっているのです。分かった気になっている、というのも同義です。

 他方で、分かるとは、あえて分けることをいいます。のちに詳細に論じますが、例えば、具体的な紙を前にして、これを画用紙だと名づけることを意味します。

 そして、分かられるですが、これは、分けられる(受け身)ことで分かることになる(自発)ということです。何が分けられるのか。それは、言葉で指示することができないもの、世界に存在する物ではないもの、です。上の例でいえば、「私」であり、「私たち」自身ということになるでしょう。このとき、「私」は自分であり、「私たち」は共分です。
 なお、分かられるものは言葉で指示できないといいながら、自分などという言葉で言い表しているではないか、との反論がありえます。しかし、指示対象となる事実が存在しないからといって、言葉で示すことができないとは考えません。ちょうど穴が縁によって存在するようになるのと同じように、指示不可能という事実自体が、分かられるものを浮彫りにするのです。

小結

 日常の中では、物を分かり、かつ分かられる必要はありません(むしろ、このような必要がない言葉の使用の領域を、日常と定義します。)。しかも、日常において分かっているということのなかに、分かること、分かられることはともに含まれているのです。推論は、これらを目の前にもたらすにすぎません。こうやって知がもたらされるのです。

第3章帰納的推論の構成について

 第3章は、4つの節から成り立ちます。大まかにその主題を述べると、次のようになります。

 第1節では、日常において登場する物ないし世界を分かることで、自然が分かられることについて論じられます。

 第2節では、「私」が「人間」であることが分かることで、同時に「自分」分かられることについて論じられます。

 第3節では、第1、2節において手引きとなった言葉がどこから来たのかが分かることで、「共分」が分かられます。

 第4節では、学問を日常の対義語と設定したうえで、上記の議論が学問であることを確認するとともに、帰納的推論の方法論が哲学以外の学問にも妥当するのか、または妥当してきたのか、が論じられます。

 さらに、追補として、上記のような議論の限界を露呈させる予定です。

 


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