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なぜ、なんのため哲学をするのか(まえがき)

動機・目的の重要性

 哲学上の文章にも、必ず問いがあり、必ず分析があり、必ず推論があります。そして、哲学においては、問われる事実も、事実の分析の手法も、推論の仕方も、私たちは自然に分かっています。あるいは、分かられる、というべきかもしれません(自発又は受け身の意味で)。
 つまり、およそ哲学的文章には、読む前からすでに自然に分かっていることしか記述されていないのです。

 歴史的にみれば、哲学的文章は無数に存在しています。それらは、互いに矛盾しあい、立場上の対立を孕んで進展してきました。
 他方、そのすべてが、読む前から自然に分かっていることしか含んでいないのだとすると、私たちにとって分かっていることに矛盾対立がない以上は、哲学上の議論においても矛盾対立は存在しえない、ということにならないでしょうか? また、ある哲学上の議論の目新しさというべきものは、確かに感じられるものの、単なる思い込みにすぎない、ということになるのでしょうか?

 私の考えはこうです。哲学的議論が初めに立てる問いこそが、立場の矛盾対立を生み、目新しさを感じさせるのです。何の事実を敢えて問うか、これが議論の船頭役となり、多種多様な目的地へと案内するのです。

 そして、問いの背後には、必ず動機・目的があります。私たちが世界において採る態度は、問うことも含めて、必ず原因をもつからです(議論を先取りしますと、だからこそ問いには限界があるのです)。

 かくして、哲学的文章を分かるためには、動機・目的への着目が重要になります。もっといえば、動機・目的が違うからこそ、千差万別の哲学的議論が存在しうるし、立場の矛盾対立は動機・目的の違いに根差しているのであって、議論の目新しさも、実のところ、動機・目的の新しさに根拠するのです。

本文章の動機・目的

 古今の哲学的議論を見ると、中には、なぜそのような哲学的議論をするのかが明らかでないまま議論を進める立場があります。これは、哲学の何たるやを分かっていないものと評価せざるを得ません。
 そこで私は、一つの個人的な動機と、一つの対世的な目的を明確にしておこうと思います。

個人的な動機について

 疑問1 月について 
 私は大学時代、哲学の教授に次のように尋ねたことがあります。私は視力が悪いので、裸眼で夜空を見ると、月が3つあるように見える。他方で、私は月が1つしか存在しないと考えている。では、私はなにを認識しているというべきなのか。月は本当は3つ存在するのであって、月が1つだという考えは、単なる根拠なき憶測ではないのか。たしかに、眼鏡をかければ月は1つに見える。しかしそれは、私が眼鏡をかける前後で月が分裂した結果ではないのか。あるいは、月が存在すること自体、私の思い込みにすぎないのではないのか。そのため、同一の月という対象が1つであると同時に3つであるという不合理なことが起きるのではないか。
 このような質問は、もちろん、人を困らせるだけのナンセンスなものです。実際、私は教授のした回答をほとんど覚えていません。 
 しかし、哲学というのは、いわゆる講学上の議論だけではなく、こういった日常の疑問に対して一貫した見解を与えうるものでなくてはならない、そう思ったことは今でも鮮明に記憶しています。

 疑問2 自然という語について
 
これも大学時代、ある教授が講義で生徒を当てて、なにか答え、教授が「じゃあ、自動車は自然じゃないだろう?」「はい、自然ではないです。」「そうだろう、じゃあ…」と。
 たしかに、自動車は自然物ではない。しかし、人間が自動車を製造し、これを運転すること自体は自然そのものではないか。―こう思いながら、数日間考えに耽っていたのを、今でも思い出します。
 自然科学とか、自然に~とか、大自然、とかこういったことは何を言い表しているのか、はっきり分からなくなったのです。

 疑問3 分からないというということについて 
 
例えば、あの数学の問題は難しいとか、あの本は難解で何を言っているか分からないとか言うことはよくあります。
 ですが、本当は、私は、人間が作成したものは、人間である限り必ず分かると思うのである。人間にとって分からないもの、それが自然とよばれるのではないか、と。
 そもそも、なぜ他動詞的に「分ける」と使えば、対象を切断等して空間的又は概念的に離すことを意味し、自動詞的に「分かる」とすれば、理解するや知る、の類義語となるのでしょうか。

 小結 
 このように、とにかく私には、身近な世界について一貫性のある見解を与えうるような体系的なものを、自らのうちに備えておきたいといった欲求がありました。その際、議論の糸口は、日常の世界や言葉の使用における疑問に見出されます。
 これが、先の個人的な動機です。

対世的な目的について

 これまでの哲学的議論の中には、動機・目的は明らかであるものの、率直に言って、自己満足に堕していると評価せざるを得ないものも存在しています。これは、個人的な動機にのみ寄りかかって議論を進めている立場であって、むしろ議論などということはしない方がマシとすらいえるでしょう。 

 そこで私は、議論の対世的な目的を設定します。つまり、上記の体系的なものをもって、現代社会が直面し、または直面しつつある問題について、一つの一貫した態度を提示すること。これを、先の対世的な目的として設定することとします。

 例えば、AIの発達等により、畢竟は人間の集まりであるはずの社会を形成し、維持し、発展させるために、人間が不要になる時代が近づいている。

 また、旧来は、自然が人間を脅かすことはあっても、人間が自然を脅かすことはなかったのに、現代では、地球温暖化や核などに代表されるように、人間が自然を脅かすことが可能になっている。
 
 また、社会における情報量や情報伝達スピードが急激に上昇しただけでなく、人間の存在自体、メタバース等により電子化されうるようになっている。
 
 このような現代特有の諸現象について一定の行動指針をもち、その場しのぎではなく、一貫した対処をなすために必要な議論を提供する。これを対世的な目的とするのです。

注意喚起

 哲学上の議論の中には、当初は明確な対世的目的があったのに、それがなおざりされた結果、抽象的な議論のみが独り歩きしてしまった立場もあるようです。
 私は、このようなことにならないように、また、第三者が誤解しないように、十分に注意する必要があります。


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