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「私」にとっての自然の自在(第3章第2節ー2)
前回に引き続き、いわゆる物自体の問題について論じてから、第1節で論じた事の3分類との関係を見ていこうと思います。
名前による分かり「以前」に、何かがあるというべきか(続き)
自在の意味
自在とは、分からない(外的に分からないことを言います。以下同じ。)ものの、あると想定できることをいいます。想定できるだけですので、あるわけではありません。
ここでようやく、自在という語を定義することができたわけです。
そして、自在は、自然の自在です。事は自在しません。
ここで、分かる「以前」に「何かがある」のか、という問いについては、分かる以上は何もないが、分からない限度で自然が自在する、と答えることになります。
というのは、ある又は存在するという言葉の意味からして、分かる以前のもののあるなしなど考えること自体ナンセンスである一方、分からないという事態が生じているとき(自然が分かられるとき)は、分からないけれども何かが存在していなければおかしいと想定できるからです。
このとき、想定される当のものを、自然と呼ぶのです。
事の3分類を捉えなおす
事には、天然事、技術事、創作事とがあると述べました。中者と後者は、「私」や「私たち」が作ったものという点では同じであって、天然事と区別されます。
そこで技術事と創作事を「私」が分かるときについて見ると、これらは、言葉の上で、あるいは言葉によって、「私」に分かるように「私たち」によって作られ、用意されています。「私」が分かる「以前」のこれらの姿などは存在しません。
そして、それらは、分かりきっているのですから、自然の自在もありません。
例えば、スマートフォンも利子も、分かりきっているのですから、「私」が認識する以前の姿など想定できません。
他方、天然事については、「私たち」が作ったものではありません。だからこそ、世界度を超えた部分は分からないわけですが、いつか体系化することで分かるようになるはずの何かがある、と「私」は想定せざるをえないのです。ここに自然の自在があるのです。
逆にいえば、天然事のうちでも分かりきりうる事(このひとすくいの原油など)は、すでに体系化され、世界度は100%なわけですから、もはや自然は自在しません。
つまり、いまだ分からない天然事においてのみ、自然は、その自在を「私」により分かられるのです。
自然の隠れ
自然が自在するかどうかは流動的で、時代や、「私」が誰かによって変わるといえます。自然は、「私」や「私たち」により、分かるものにされ(体系化され)ていくことで、自らを隠すからです。
なお、次節でまた論じられますが、天然事の分かり方、つまり体系化の仕方は、一通りでは決してありません。
にもかかわらず、1つの分かり方が日常の言葉の使用上定着すると、言い換えれば、内的な分かりへと含まれていきますと、その分かり方がその事の意味になってしまいます。もはや分かりきったものであって、自然が自在しなくなります。
しかし、天然事であること、つまり自然が自在していたと想定することができる事である事に変わりありません。もっといえば、これから先、自然が自在するようになるかもしれない事ともいえるのです。
そのため、自然が自らを隠すと表現させていただきました。そして、一度隠れた自然が自在するようになること(いわゆるパラダイムシフトがここでは意図されています)を、自然が顕れると表現することとします。
物自体の言い換えに過ぎないのではとの批判
ある事の認識以前に、自然がまずあって、これを名前をもって分かることで事は事として存在する、と考えるとすると、確かに、物自体を自然と言い換えたに過ぎないことになります。
しかし、ここで述べられていることはそうではなく、いわば、天然事のうち、外的に分からないような事、という一部の対象に限って、物自体を想定する、ということです。
しかも、悟性が、カテゴリーを通して、物自体を認識にもたらすというストーリーも、意図されているわけではありません。
日常における言葉の使用上、事として表されている事のうち、分からないという事態が現に生じている場合に、そのような事態の発生そのものを自然の自在と呼ぶ、ということです。
「私」の事の分かり方
言葉を分かっているようになったということ
「私」は、言葉を分かっています。分かっている言葉を使って事を分かっています。
しかし、「私」は、はじめから言葉を知っていたわけではありません。言葉を学んだのです。
そこで、まず、言葉を「私」はどのように学んだのか、という点について論じるのが正当な順番かもしれません。
が、これについては、次節で、「私」ではなく「私たち」を扱う際に論じることにします。「私たち」について考えることなしに、「私」のこの学びを論じることができないからです。
ここでは、言葉を分かっている「私」を前提に、言葉をどのように用いて事を分かるのか、そして自然が分かられるのか、が論じられることになります。
技術事・創作事の分かり方
これらの事は、対象を新たに用意したか、あるいは既存の対象を捉え直したかの違いこそあれ、ともに、「私たち」自身が作り出した事です。
そして、それらを作り出したのと同時に、その名前を言葉に導入されたと想定でき、その名前を、「私」は分かっているわけです。
「私」がこれらを分かることは、いわばトートロジーのようなものです。
たとえば、このリモコンをリモコンと名付けて手に取りテレビのチャンネルを変えようとするとき、リモコンはリモコン以外の何ものでもありません。「私たち」がリモコンという名前で名付けられるべく存在させた物を、「私」がリモコンと名付けただけだからです。
だからこそ、分からないという事態は生じえず、自然の自在する余地もないのです。