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幻の最強馬

トキノミノル(1948年 - 1951年)

日本の競走馬である。
10戦10勝・うちレコード優勝7回という成績でクラシック二冠を制したが、東京優駿(日本ダービー)の競走17日後に破傷風で急死、「幻の馬」と称された。
戦後中央競馬で10走以上した馬で、唯一全勝を記録している。

その戦績や圧倒的な実力、そして悲劇的な最期から「幻の馬」と称された日本競馬界のレジェンドホースの一頭。
もしくはそれを由来とした北海道新ひだか町三石地区産の米のブランド名。

パーフェクトのポテンシャルを見出し、鞍上に乗ることを希望した一人の騎手がいた。
その男こそが岩下密政(いわした みつまさ)である。

岩下は、第二次世界大戦前から活動し20年近くのキャリアを持つ、田中厩舎所属のベテラン騎手で、安定した騎乗スタイルに定評があったものの、戦前~戦時中の重賞勝利数がわずか3つで、戦後直後5年間の通算勝利が50にも満たないなど、長らく低空飛行状態であった。

そうして1950年7月23日、岩下とのタッグで函館競馬場で行われるデビュー戦を迎えることになったが、練習中に気性の荒さが出てしまい、出走練習のやり直しを命令されたうえ出走登録を拒否されてしまった。
栗林友二(最強の牝馬と言われるクリフジのオーナーとして知られる)の仲立ちで改めて出走登録させてもらい出走が許されたものの、当日もスタート直前のゲートインの際に鞍上の岩下を振り落とすというトラブルをやらかした。
だが、いざレース本番に入ると、恐ろしいほど順調なレース運びを見せ、気が付けば8馬身差で圧勝してしまった。

ところで馬主であった永田はというと、パーフェクトを購入した事をすっかり忘れてしまっていたため、パーフェクトのデビューウィンを田中からの電話で知らされた時、「何だそれは!?」と言い返してしまった。
呆れた田中が「私があなたに勧めたあの馬なんですけど……」と突っ込みを入れると、永田は腰を抜かし、態度をコロッと変えて狂喜乱舞したという。

数日後田中の厩舎を訪ねた永田は、パーフェクトの快挙にすっかりご満悦な様子で、パーフェクトを「トキノミノル」と改名させたのだった。

「トキノ」は元々大映初代社長であった菊池寛が馬主として所有馬に付けていた冠名であり、「菊池さんが生前叶えられなかった競馬に掛けた夢や願いを実らせてほしい」という願いが込められている。

以後トキノミノルは、岩下とのタッグで連戦連勝、1951年5月13日に中山競馬場で行われた第11回皐月賞では、当時のコースレコードであった2分3秒0をマークし、見事優勝した。
この時の単勝支持率は73.3%であり、令和6年現在も破られていない記録である。

勝利の女神に見放されつつあった岩下にとっても、トキノミノルとの出会いはまさしく奇跡のような出来事であった。

だが…………。

故障からの復帰~日本ダービー制覇

皐月賞の翌日、中山からトキノミノルが無事に帰還したものの、どこか歩き方がおかしくなっていた。
それから10日ほど後、右前脚の蹄にヒビが入っていたことが判明する。

実はトキノミノルは生まれた時から右前脚が弱く、そこを庇いながら走る傾向にあった。
岩下もその歩き方の癖に前々から気付いており、レース中はなるべく脚に負担がかからないよう慎重に走らせることを心掛けていた。

そんなこともあり、日本ダービーに向けての調教を軽めにせざるを得なかったのだが、それに対して、普段穏やかな人格者として知られていた田中が「なぜ追わないんだ!」と珍しく声を荒げてしまうこともあった。
不運にも、右前脚をかばうあまり左前脚の具合も悪化したばかりか、高熱にうなされるようになり、食欲も衰えていった。
永田はこの事態を懸念し、日本ダービーへの出走断念も本気で検討するようになった。

ところが、6月1日に入り、トキノミノルの病状は急激に回復。
結果的に日本ダービーへの出走が決まるも、それまでの調整不足のせいか、関係者から不安の声が上がった。こうした経緯もあってか、本番では念のため蹄と蹄鉄の間にフェルトを挟む、という処置を行った。

かくして岩下とのタッグで臨んだ6月3日の第18回日本ダービー。
序盤から中盤までは故障を恐れてかなり後方を走らざるをえなかったが、向こう正面でスパートを掛けると一気に先行していた他の馬を引き離し、終わってみれば1馬身差で優勝を果たす。

無敗のまま日本ダービーを制した名馬に近寄ろうと観客の一部が馬場に殴り込んでしまうという混乱の中で記念撮影をするハメになってしまった。
競馬ファンの間からは「菊花賞もいけるぞ」という声も飛び、永田も「菊花賞も取ったらアメリカ遠征も考えている」と発言するなど、まさしく永田ラッパの面目躍如であった。

早すぎる最期

しかし日本ダービーから5日後、厩務員からトキノミノルに元気がないという報告があったが、この時は調教を休ませた程度で特に大きな対策を取らなかった。しかし、日にちが経過するにつれて、再び食欲不振に陥ったり、歩行がおぼつかなくなったりするなど、徐々に様子がおかしくなり、それから約1週間後には目が赤くなっているのが見つかり、結膜炎と判断された。
ところが、結膜炎を疑った次の日には、些細な物音に過敏に反応したり、全身が固まったように動かせなくなったりするなど、さらに症状が悪化したため詳しく調べてみたところ、破傷風であることが判明(現在では、上記の症状はいずれも破傷風の前徴および主症状であることが判明)。
すぐさまそちらの治療に切り替えることとなった。

永田は「なんとかして助けてやってくれ! 金は惜しむな! ダービーの賞金もみんな使え! 競走生命がなくてもいい。なんとしても命だけは助けてやってくれ!!」と田中や獣医に必死に頼み込んだ。
永田や岩下も加わっての懸命な看病もあり、一時は回復に向かっているかのように思われていた……
(この時実際に治療に投じられた資金は、当時の日本ダービー1着賞金の100万円とも、それ以上とも言われている)。

しかし、その矢先であった6月20日、破傷風の主症状である筋肉硬直と痙攣が再発、全身がまともに動かせないほど病状が急激に悪化してしまう。
そして懸命な応急処置も甲斐なく、食事すらできないほどにまで衰弱、獣医はこれ以上の見込みはないと診断した。
その日、岩下は別件のため外出していたが、容態悪化を知らされ、その夜、慌てて府中の田中厩舎に駆け付けてきた。
岩下がすっかり弱り切っていたトキノミノルのもとに飛び込み「どうした? どうした!」と声を掛けると、トキノミノルは聞き慣れた相棒の声に安堵したかのように目を閉じていった。
そして、1951年6月20日22時34分、無敗のまま日本ダービーを制したトキノミノルは、薬石効なく敗血症との合併症により、永田、田中、厩務員や獣医をはじめとする関係者、記者やレポーターなどのマスコミ関係者、そして唯一無二の相棒・岩下に看取られながら、4歳(旧表記。2001年以降の表記では3歳)という短すぎる生涯を終えたのであった。

最後を看取った記者一人であった橋本邦治は、「これがあのダービー馬か、と目を疑いたくなるような、寂しい姿だった」と回想している。
墓は東京競馬場の一角に建てられ、2022年現在は同競馬場正門前の馬霊塔に改葬されている。
そして、1966年には、同競馬場パドック脇にトキノミノル像が建てられ、除幕式には永田が参列した。現在も東京競馬場の待ち合わせ場所として知られている。
また、トキノミノル像は自身が参戦する事が叶わなかった菊花賞が行われる京都競馬場の方向を向いているという。

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