
ツルマルツヨシが"ウマ娘"

「右前、次は左トモ、次は…と痛いところだらけ」
ツルマルツヨシはGIを勝てずに引退した競走馬だ。
「れば」「たら」を言えばキリがないが、もう少し体質が強ければもっとたくさん勝てただろう、と言われていた競走馬だった。
ツルマルツヨシが栗東トレーニングセンターに初めてやってきた日のことを中西氏はまるでつい最近のことのように話す。
「忘れもしない、1997年10月4日でした。
賢くて大人しい馬でしたが、とにかく体質が弱くて…。
デビューに向けて調教を積んでいくのですが、右前が痛い、と治療をしたら、次には左トモ(左後肢)、次は左前、今後は右トモ…と順番にあちらこちら痛くなっていく。
一体、いつになったらデビューさせられるだろうか、と気を揉みましたが、幸いカイバ食いはとてもよくて。
大人しく賢い分、余計なことはせず治療や調教にも耐えてくれました。」
陣営は、いつか来てほしいが、いつになるやら計画が立てられないデビューの日に向けて淡々とツヨシを育て続けた。
「それでも、速いところをやりだしたら(注:調教でコースを走り、1ハロン15秒を切るくらいのタイムで走るようになったとき)いい走りをするんです。これはいいものを持っている、ということで調教していくんですが、やはり体が痛くなっての繰り返しでした。」
日はどんどんと過ぎ、新馬戦の番組がなくなり、目指すはずのクラシックレースのトライアルは終わっていく。
ようやくデビューにこぎ着けたのはダービーへの最終トライアルが行われる5月のはじめのことだった。
ツヨシが入厩してからすでに7か月が過ぎようとしていた。
「1998年5月2日、ダートの1400m戦でした。
人気はなかったですが、藤田伸二騎手を背に無事勝ってくれました。やはり光るものを持っているな、と実感させられた一戦でした。」
■1999年有馬記念 優勝馬グラスワンダー
会長「ちょっと笑ってしまいました(笑)」
その後、ツルマルツヨシは朝日チャレンジカップ(GIII)、京都大賞典(GII)などを優勝したが、GIには残念ながら手が届かなかった。
縁あって京都競馬場での誘導馬を経て乗馬となったが、現役時代のオーナーが亡くなったことにより行き場がなくなりそうなのを知った中西氏が引き取ることを決意し、旧知だった私に声をかけたのが「ツルマルツヨシの会」のはじまりだった。
ツヨシを引き取った後の話はこれまでもYahoo!ニュース等で書いているが、今年で会ができて10年になった。
この節目の年に奇しくもツヨシが"娘"になるとは思いもしなかった。
人生、何があるかわからないものだ。
中西氏はゲームはしないので、いくつか"ウマ娘"になったツヨシの姿を見せた。
すると、「ちょっと笑ってしまいました」と微笑ましい返事がかえってきた。
ツルマルツヨシとマチカネフクキタルは史実で同厩の先輩後輩
ちなみに、"ウマ娘"にも登場するシンボリルドルフは史実ではツヨシの父であり、マチカネフクキタルは同じ二分久男厩舎で同じ"カイバ"の飯を食った仲。
ゲームでも史実でも1年先輩だ。

この時代に二分厩舎にいた方々に「ツルマルツヨシとマチカネフクキタルは併せ馬をしたのか?」と聞いてみたが、あまり記憶にない様子だった。
もしかしたら、ちょっと一緒に走ったことはあるかもしれないが、本格的に胸を借りた、ということはなさそうだ。
そのあたりの史実もいつか探ってみたいし、今ならそれを興味深く読んでくれるであろう方々がたくさんいるのが嬉しい。
ウマ娘サマサマ、である。
そして、筆者はいつかツルマルツヨシが育成キャラクターになったら、クラシックレースを走らせてあげたい気持ちでいっぱいだ。
ツヨシは前述のとおり、体質が弱くてクラシックレースに出走することが叶わなかった。
しかし、競走馬として生まれた以上、クラシックレースを目指すべく期待をかけられてきたし、距離の合いそうな日本ダービーに参加して欲しかった。そんな現実には叶わなかった想いを託せるのが、この「ウマ娘 プリティーダービー」の良いところだ。
もちろん、これが所詮ゲームだ、仮想の世界だし実在の馬が走るわけではない、というのは十二分に承知している。
だが、現実の競走馬とは似ても似つかぬ姿とはいえ、チャームポイントにはモチーフである馬に纏わる何等かのデザインが用いられている(ツルマルツヨシの場合は顔の中央にある白く大きな星が前髪に、勝負服のデザインがヘアピンに表現されている)し、何よりレース実況や走る姿のスピード感は迫力満点。
私はこれまでも、実際にはダービーを勝ちきれなかったメジロアルダンやマチカネフクキタルにダービーを勝たせて感激したものだ。
いつか、ツルマルツヨシをダービー馬、いやダービーウマ娘にしたい。
それが、いまの私の夢なのだ。
