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分散

9-10で名古屋、12-13で草津へ。
どちらも落ち着いた、あ〜いい旅だったな、と思えるものだった。

今までの私と比べれば、無事故で帰ってこれただけでも一安心である。ハードルが低すぎるだろうか。

名古屋へ向かう新幹線の車内では、今日は場合によっては死ぬことになるかもなと思いながら何度か体が震えたが、考えすぎだったのだろう。賢島まで足を伸ばして、一人でのんびり、小島を眺めていた。

おじさんくさい考え方をよくしてしまうので、旅行をするときは「旅情」とか「後味」とかを大事にするのだが、その点ではどちらもとても良かった。本を片手に窓の外をぼんやり眺める、気まぐれに昼寝してみる。時間がゆっくり流れているような、そんな感触が本当に心地よい。

円安のご時世、なぜだか海外旅行に行く人も多い。どうせ金持ちなんだろうな〜と思ってしまうのは凡人の妬みだろうか。いや、英語をしゃべれない自分の妬みと言った方が近いかな。

「凡」な家庭に育った私はもっぱら国内旅行なのだが、津々浦々訪れるたび、強がりでなく、日本も捨てたものじゃないなと感じる。「日本が嫌いすぎて…」「日本でやってても無理だから…」こんな言葉を同期や友人から耳にするが、日本を誇りに思いながら人生を送るのも、まあ悪くないんじゃないかなと思い直す日々になっている。

賢島
草津


そんな「日本大好き」な私は、今日もテレビでプロ野球のチャンネルにまわすと、ちょうど村上宗隆が55号HRを放っていた。負け試合だったからだろうか、表情は抑え目に。

今年のヤクルトは本当に強い。今日は点差をだんだんとつけられていったが、それでも何かあるんじゃないか、追いついてくれるんじゃないか、そう思わせる「何か」がある。そして、現に村上がHRを打つ。これがプロ野球の面白さだなと再認識した。なんでスポーツ観戦ってこんな楽しいんだろう。

ところで、今の大学生にこの話をして、どれくらいの人と共有できるのだろうか、そしてあまりできないだろうなと思うと、少し寂しい気持ちになる。その昔王貞治が55のホームランを並べた頃、さぞほとんどの家庭で巨人戦が流れ、「お茶の間」で家族が団欒しながらその偉業を眺めていたことだろう。

個性が尊重され(すぎてい)るこの時代、色々な情報で溢れている中で、その中の一つを共有することはなくなった。趣味嗜好が、分散している。もはやそれを整理できる人もいなければ、適切に潮流に乗っかることのできる人もいない。プロ野球くらいみろや、と言う気は毛頭ないのだが、ある意味では前時代的な楽しみ方がひどく恋しく感じる。

氾濫する情報、その中のほんの一つかみの潮流を140字にも満たない文章、もしくは写真のみで、さもクリティカルヒットさせたかのように表現してみせる、そんな括弧付きの「わかりやすさ」が標榜されている。通りいっぺんの使い古された言葉に流されながらあっちへこっちへ。「あっち」に気を取られているうちに知らぬ間に「こっち」に流行が移っていて、ふとした時には会話についていけなくなる。

ここまで面倒なことになるなら、少なくとも今よりは「わかりやすい」構造だったであろう昭和の時代に、穏やかに野球を観る方が楽しかったのかもと考えを拡げてみると、果たして今の時代で何を携えて生きていけば良いのかがさっぱり思いつかない。

Instagramを最近はほとんど開かないようにしている。「そうすると人生楽しいよ」というなんとも「わかりづらい」友人のアドバイスを受けて1週間くらい続けているのだが、その気持ちがなんとなくわかる気がする。他人の投稿でリズムを変えることがどれだけ不自然なのかが分かってくる。

「マイ」ペースが「自分」に一番合っているのだ。字面を見れば当然なのだが、そんなことすらも見えなくなってしまっていた。

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