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アフターダーク 好意的書評
本当は良い面と悪い面、半々ということは、世の中にはもの凄く多い。偉い人の偉さもそうなっている。全肯定という中立さのない考え方は、恣意性の様なものは自然に含む事に成る。言葉のトリックは洗練させない限り言葉には少し入る。それを明るく書くということはそうして、そうなる。宮崎駿なら宮崎駿の手塚治虫なら手塚治虫のスタンスは、ここにはある。史観をいれないという事は、日経新聞と自らの胸を叩く様なとても素晴らしくも人間性との違和を起こす事とは思われる。
アフターダークは、比較的日本をそのまま、書いた場所と状況設定の明確さみたいな物と縁はそこそこ切り離されてない。
無意識の心理学、興味持つ、芽もある人は、最初の関心は、文学にない事はおおい。表現はある意味、表現を永遠に越えないし、話す為の井戸端会議は本質を外れている。
こういうところは本当に考えないと、自分はフロイトに近いかアドラーに近いか、そういうことも分からない。
分類されるからと言ってこういう事は凡庸な一員としては「なんなのか」自覚のうすさは、無意識とはまた違う。意識ないこと全般を無意識っては言いはしない。
ひとつには、この作品は、なまなましい性愛や露骨なリアリティに揺れない層の登場人物は、直面する立場におかれ、意識と行動と活動をすこし代表してもいる。
わりと戯画的に役割分担された英国ふうな意識の存在と無意識の存在といった区分けは、実際とちょっと離れるものの、読者にはおもしろい部分かも知れない。
露悪には単に毒される、偽悪には単に傷つくひとは一定数、いる。
そういった善良的な弱者を弱みに握られる構図は著者はたまに書く。
弱者を抱えさせる強者という、へんな例を言うと、雨雲を動かせる密教の行者居るとして相手に災難をふりかけて、自分の地域を、守ってる様な潜在的な狡猾さを描いたりと、夏目漱石かな(??)という部分もなくはない。
厳密にまえ情報を明かすのは辞めにしよう。読みたい人はきっかけにされたし。
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