終活としての遺言
「適当に生きて適当にしぬ」こういう気持ちは、シリアスな大切さを持って居る。
故意に軽くするということは、一方的にわるいとは謂えない。
最終的に出したこういう結論、答えを拒むと人格否定に響こう。
そういうコトは、真剣に決める。
【重さや正しさに固執するコトこそ手前にある。卑近な点をもってる。】
もしも 居なく成ってもそういう助言は、大事にして下さい。自分は、いかなるヒトなのか。愛着を持つにしても本当の自分にそれをしてもらいたいと思いました。
単にそういう意図から今、これをやりますよ、、。
わたしはカフェインと抗鬱剤の影響については、学生時代の早くから知れていました。
これについては自殺の書物の付録の様にしりました。
ナルシストはちなみにのはなし、我流をノーされると自殺くらいつらいという憐憫をかけてはいけないケースも、あります。
いつか来るわたしの死に対してそういった、過剰な情緒を覚え哀しみに暮れることはやめる、それを許して下さい。みなさんひとりひとり御自身に。
GLAYくらいにはわたしは、自分を隠しています。
ひけらかすよりいいと思っています。油断をしない事には何度も助けられました。かりに瀕死してないひとにゆるゆるにしましょうと言われてもワタシは、これを貫きます。
体癖については誤解に反応して自己理解は、速めに来ました。
9種に見えても3種にみえたとしても7種強めの5種混合の体癖というものに成ります。
ヤンキースにひとり居ます。
イチローの同僚してました。
心残りは、なんにせよ邪魔となると想えます。加齢によって増えるならやはり加齢は、したくないと考えます。
私は、こういう面を重視しており整理自体は普段からしており、思いつめているとは限りません。
過去の整理をそれゆえ重視します。
うらわかき頃からそれは、して、いました。役割の継承は、重視して居て軽微に 考えません。老人とは違っても次世代のことは、考えます。
腕立て伏せは、腹筋よりやや大切と思考はします。
わたくしって、過保護な仲間愛を持っていはしましたから。それを克服するにあたって、タナトスや、戦争文学や、男性的な色彩の濃い精神分析はふかい実際的、影響もしくは、背景をなしました。
命には「美化」もあります。それを全ての様捉えて、勇気を、出さなかったり安定に、偏重したり一部より大きくとらえたりします。
死を絶対視するコト同様にそれは、絶対視の危険性そのものは持っています。
黴菌への恐怖心も、そう捉えてみましょう。以前肉体の破滅は、怖れなかったのならば状況に左右されてその好いメンタルを過剰に譲る必要は ありますか??
その部分は間違っていませんよね。恐怖にまけてはいけません。
聖書については、ヨブ記 イザヤ書を理解してます。森林の思考と砂漠の思考の比較(検討)ズーダーマン、スピノザ、レヴィストロース、カント、デカルト ヤスパース、すこしくキルケゴールにワタシ自身の思想は、背景とそして影響は、受けました。
完全に死する時は これを、委任状に捉えてまた「意見」っては捉えて下さい。あかるい終活を。