繰り返さない楽譜みたいに
小田和正とか、宇多田ヒカルとかレッチリをきいて、メロウな正確な拍を身につけ、打楽器をやってたし、それを鍛え、音楽はTOKIOの皆さんと同様感情に成って辞めた。そんな甘えをつくる場ならいらない。もっと真剣なひとに失礼。つまりその場合は今後も辞めることに成る。全ての免罪符ちゃうし。その時期に棚橋くんの試合とか観たのかもしれない。とにかく切り拓けたらいいのなあ、とその時おもった。周囲の人と比するとThe beatlesはすきなほうと、言えた。The Rolling Stonesに、出会ったのはそれよりあと。拍を間違えそうになると誤魔化すひとを沢山みたから未練はなく、管楽器より打楽器を始めたのは肯定して居る。後者のロックは自分のスケールを伏線として拡大して行ってきっちり器のスケールに説明出来る、そういうかっこよさは非常にあるかな!とおもった。カントリーロックの崩れ切ったような物もきいた。
オルタナを偏愛するのは途中から良くないなとおもった。
ハーモニーを犠牲にするのを、内省して。
とはいえ進むのはルール、走ったことを肯定する、そういう面をすきなのは変わらない。
音楽はかなり深くやめた所も有る。
期待にも飽き飽きしてしまった。
そりゃ頑張りたいし、かといって、まとまりから、違う物を正しいと言われると、やはり、しないとおもう。
出逢わなかったらこう、具体的にキライにはならなかった。
理屈を忘れさせてくれるの!って、それをやっても、そういう現実逃避を促す効果は無い。
そうしてそこあさはかなのは、なにやら傷ついてきさえする。
違うよねと。
たしかにええねんとは思っていない。
自分を愛し、信頼、する代わりの音楽というもんも無い。
あとをひくような辞め方をするならハッキリやめる事。
路上から、また誘われて歌ったりはするかも、しれない。
半端に続けるのをホントにイイと想わない。
前衛的なとおりゃんせとかそういう曲もおもしろいとはおもった。
最終電車とか創ってる。
感覚を想い出すことは出来る。
一員として、やるという事はもう無いのかも知れない。
明るいきもちにあまりならない。
大まかには最適解を、創り出しちゃうみたいな所。
ひとりも正解は居ないのにそれらしくは聞こえる。音楽のそういうところに甘えてる。
気楽にそれを再開したらいいとは、めっきりおもわない。
消極的に是認はしても、その個人の無さは深刻とは想ってる。
真実を教えてくれてサンキュー悲惨な真実を、なにやら、そうおもえて来る。
ビジュアル系を肯定する様にいちおう最近はした。
シドとかオーラルシガレッツオッケー!!と。
こわいから、みんな居るって本当に成長はしないとおもうよ。
それは表面的な成長し無さ、より、ふかいと思うよ。。。~