未来の社会に捨象される現代社会らしさ有る???
あのアニメは主要な影響かもしれない。地味なキャラの諦められない人生(模様)は、いつも完全を求めて叶わない。併し殊更、始めるきっかけも無かった様に、断念のきっかけも、ない。生きてしまっている。そこから死をけなす事も簡単になってしまっている。命の宿る「体」を人としない時に深い意味の他者とし、他人との甘え合いを基調としない相互理解は始まる。当然の共通点をなにか1つ見つけると、傲慢な人間存在は、あっというまに和気藹々と、大切な要諦をわすれる。たまに常識人いると、珍しい。それを立派な個性と、していい。現実と言われたら受けいれてしまう気質。あたかも空気を尊重する人々。きっと傷つけはしてこなかったと言い張れはするかも知れない。そんな弱音に心は毒されて往き。ちいさいものに命は宿る。普段尊重していない、それに振り回され、本当に駄目なわたし達。自信なんて持てやしない。過去を斬り捨てて、未来に行くのか。未来を切り捨てて、想い出を守るのか。その情緒を介さない機械化のこころ。「もう終わるのなら」必要なのは、おわりの準備、後片付け、環境破壊して部屋、涼しかったりするのは当たり前。続ける事しか考えないから、我々はそんな事に成ってしまう。危険なことを中止出来ない、慣例を理由に中止を決断を出来ない、見栄の張りたさ。もうそうなら、歌舞伎者を表沙汰に生きりゃいいのに。ふさわしい指示を待って居る。きっとまえから、おわっちゃいたし、過去のあてはまる時季も終わっている。そんな事を泣きわめきたい割には現実的な努力をしない。私は、それゆえ、多少、性悪説に立つというワケ。「ありのまま」に「しておく」と、そのまま終わる。人為をいれたり、改革をしたり、新陳代謝したり、過失を認めた時に、ありのままという内部しかない状態を卒業出来る。感情の流れにしっくり来るか、ちょっと離れられるとき、来る。自分の主観を透さない相手を理解出来る。もし当然意見を、言ったら、好いのなら惰性の自然をチョイスした結果、不自然に、そう単純な事としておいた建前も破れ、あいてを決めつけたという事に成り、現実を声高に言いたいなら先に、現実のなかの現実は、相手を理解してないなら、そう、認めようねというコト。なんら解り合っちゃいない真のありのままという物を今度は2番目にするか。真実は醜いなら、それを、ありのままと、言う。こたつに居たい笑顔を守ったら幾度、既に、滅亡した世界?誰かは変えて、そのありのままも続いたね。その人の貢献わかってないってのみなら、現状はハッキリ言って0の価値も(その方に)創出していない。頑張った人を犠牲にする社会なら、いわく、激しい変化とてそれを、受け容れるしか無いと。