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hananosu
自分の個性からの逃避
かなり変わった個性というのは一応なんとか成ることは多い。非常に多い。多数派といっていい。そういう程度の多寡、おおいか少ないか、それはそんなに問題にならない。天才と言うのはそういうことに最初に気付いたりする。一日目に気付くところを二日目に気付いても秀才には成れる。例みたいなことね。性格変わってるとかそれくらいは、社会って言うのは通ることおおい。
そこは考えこむより実際はそんな厳しくない。劣等感にえへらえへらしていたら、そこは(それにより)指摘される。
それに我慢も台無しにするような害はない。
社会生活というのは本音をさらけ出し合うとは限らない。
それは情緒的に哀しくなる事はあるかもしれない。こういうのは単に認識おいついて来たら、感情論と同様の頃合いに克服出来る。
感情論については、感情自体の強さはあるとよりよい、という、追随して模範を真似るむりはある。大人の感情薄いと思うとしてそこにはいくらか真実こもる場合はある。それをすっかり捨てちゃうとフロイト派の問題点としてみられるような、感情論はなおし、なおせた。と同時に、感情もなおしてしまった。
こういう惨事になるという意見はある説得力を持って存在している。
自分をなおしたら、自分には拘らない。
自分いないから。
問題児の全ての問題をなおすとゆうのも、問題に宿っていた命もろとも切除する場合はある常識なんかない判断。
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