昭和
その時期、人々がきをつけたことがあった
昭和の速いタイミングで来た前期
貧しいということについては本気の配慮をしていた
中流がギリギリ届かない
そういう人がある意味多数派にちかかったからだ
背がそうなら、もどかしいだろう
そして対等じゃないものが「ちょっと」あって
ちょっとが程度も現実にも摑みがたい
そうなったら気はつかうだろう??
そうして手加減してあげたら立場が逆転してたり
それは嘲りとかは『かんけい』ないのだ
実際それを体験するとそれに限らず現実は、優しくも厳しくも無いし
しかしそこをドライにするのは時代性としては温かさへの憧れみたいな物は、あった
ドライにするのは、かっこいいだけ、響かない
そこがひとくせあっても米国と違う個性認識キープ可能であった時代では熱血漢、潔癖マドンナ、そんな風にして、奇抜な個性のあることは、いまやどこの国も不可能ながら保守化が充分なら国の特色として受けいれる
俺達へんな仲間好きなんだよねと
うちらで面倒みるからさ
と理解をし
だが一度過ぎることは免れない〈時代〉だろう
保守の立場からしても途中一丸と成れない時(場合)その場合に、他国に可能性を求めにいくことになる
一時期の西洋は、これが圧迫的だった
反面教師だったのだ
良くも悪くもという、存在感がよきにつけあしきにつけ、つまり条理の優柔不断さを醸成しつつやれやれという継続をして居た
一言でいうと『周り』は判断を、延期せざるをえない
保守の完全な不在は超のつくハイリスク
隣の芝生は青く見えるその為か、自分をタナにあげている…
内政が統御を十分程度、獲得しなかった状態だ
外の出方に大きすぎる物が懸かってる
恐竜だって哀しむべき絶滅は、する
そういうふうに素晴しい物も
過ぎる
人が楽をせず土台から建設しなおす段階
新聞の権威だって壁新聞からに成ることがある
現実としてマイナスとばかりは言いきれぬ
完全肯定も似合わない
自己を失った文化は、様相をこう、得る…
強がるのはタダの無駄と断定しえない
アイデンティティーはその個が信じるまま
表に、出すしか無い
相互援助そのものは、大切と、思います。有償のことをする余裕を持って、無償の活動を敢えてする系のスタイルを、とってます。 プライスレスに、人生を再始動したい人には情報を提供出来るかなとおもいます。OK??? 企画倒れは充分警戒したいし、格闘技なら階級低め、組織ならNPOは、穴場。