予定を自分で決められないのは何故か
シンプルなこたえが、ある事は、はっきりさせておこう。未来を教えて貰うことの、害が、あちこちに出ている。
副作用みたいなものだ。副作用みたいな。主作用より副作用の大きい薬は、売り出されないと、理解していい。これも補足。
ちゃんと人を理解しようとすれば、ちょっとは勉強っていうのも出来る様に成る。ここからばかにする人教える責務無い。
どんな世間も少しは人々の善意で出来ている。武士道とデカルトは、セットでかんがえて、みよう。疑うという方法についてだが、これは、きりがなくなる。だからすべてへ当てはめない。信じりゃいいんでしょとだれてる時に疑う。うたがい過ぎてる時は、信じる。日本ではそう理解したらいい。
これは深めた意味での和洋折衷という方法だ。
相手を傷つけてないかすこし心配という感情は必要で欠如している場合があるのに目を向けよう。
「芸能人とか動画配信者」自体は、自分を、今後も生きる事は、理解している。この自分が大好きすぎると問題はあるが。
こういう時全肯定で全てに変えるのは、よくない。
赤ちゃんと同じじゃないから。それに可愛さで喜ばせたりもしてない。
とにかくそれ分かると、決定に前進する。
自分について、それを甘やかさないことが大事だ。
母性愛は期待してたらいけない。
そういうのがあると。依頼心。
あると、決められない時、言い訳しやすい。スーパーエゴの話もきっちりふかめよう。それを学んでお行儀よくなった時、人間はミスしやすい。
これでオーケイみたいなぬるい線をひかれると、たといそれがルールだったところで、判断はなまる。
何かに従えばオーケーだよという事を学んだ時点に本当は、まずさは、あると言えよう。
承認欲求の問題が生じるのも、認められる事と正しさの癒着だ。
みとめられないと、動けない人全般がそういう問題というのは、抱える。
かかえてる。
理系をある程度から理解出来ないひとも、正しさがあったらほめられるという等式を過剰にふりまわしている。
いろいろ理由はあっても、有力な1つだ。
正しいことは、ほめられるとは限らない。
承認されたから正しいか、それも、同様、限らないし。
人間は、自分の運命を、決め、失敗する事も、ある。
それが一番むしろ本来だ。
成功を与えられてわかることではない。
与えられたら、プロセスが、抜け。
失敗からわりだすという事も身につかない。
甘えは失って良いなとわからず肉親を失ったりする。
回避回避がたの葛藤というのは実際あるんだし、この二つなら、明らかに甘えを先に手ばなした方がいい場面だが、そこで肉親を失ったり、する。
それは危険を、きりひらく担当をやらせ続け、プライオリティをすっかり忘れたのだ。廃用萎縮としてそれを、捉えていい。
靴を忘れるのと命を忘れるのだと、どっちがいいとかそういうことがちょっとわからないのだ。そうすると問題は、ある。
生きる時に問題なのは、高等な知識ではなくそれを、知らない事だ。
ブルーカラーの賢さとかは知らない人は知らない。わからないし。評価もしない。デスクワークな価値観と知能。
脳みそを肥大させた彫刻を、見て、感動する人は、一部だろう。
きめるというのは、それに対して、動く事。
おしまい。