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~自己紹介~

私は1年前まで、4人以上の人たちの前で話すことができませんでした。
かなりの人見知りで人が怖かったのです。

それが、潜在意識、集合意識と意識のことを学び、実践活用していくうちに、どんどん自分の思ったことが言えるようになりました。

なぜ、3人以上の人たちの輪の中に入れなかったのか、
どうして変わることができたのか。
知りたくないですか?

もし、人が怖いとか、思ったことが言えない、そんなあなたでしたら
私の体験がお役に立つかもしれません。
自分の身に起きたミラクル体験をシェアしていきたいと思います。


私は両親が教員の家に、ひとりっ子として生まれ大事に愛されて育ちました。普段は仕事が忙しい両親に代わり、祖母が真心を込めて大切に愛して育ててくれました。祖母は昔話や、日本の神話も聞かせてくれて、ご先祖様やお天道さまに恥じない生き方をしなさいと、優しく頭を撫でながら伝えてくれていました。
教育熱心で厳格な家庭で、超箱入り娘で育てられ、物心ついた頃から、
「将来はお婿さんをもらって、この家を継いでいくんだよ。」とも言われていました。

小学校に入ると、他の子たちは楽しく外で遊んでいても、私は家でお勉強かピアノの練習でした。100点をとるのが当たり前、ヨイ子の時しか認めてもらえない...。
また両親は、将来きちんと自分の意見が言えるようになって欲しいと、
幼少期の時期に毎週日曜日に、毎回テーマを決めて家族会議を行っていました。
内気な性格の私は、人前で話すのが苦手でしたが、両親が求めるヨイ子でいようと、学級委員や授業中の発表もイヤイヤながらも頑張っていました。

学校と家との往復、それは学生時代の間はずっと続きました。
進学は超内気な性格で、人前で話すことに恐怖があった私は、両親から教員を薦められるも、生物が好きなことがあり理系の道に進みました。

大学でも、通学に片道3時間以上かかる所でしたが、下宿は認められず、友人が遊ぶのを横目に見ながら、学校と家との往復で、門限は、授業が終わる時間+通学時間 という、籠の鳥の生活でした。
何処に行くにも、何をするにも、「何処に誰と何をしに行ってよい」という両親の許可が必要で、自分では何ひとつ決められない状態でした。

両親の意にそぐわない本音を言ったら、そんな子に育てた覚えはないと怒られる。。。唯一本音を打ち明けられるのは祖母だけで、祖母が私の心の拠り所でした。

大学卒業後は、世界的にスタートした、ヒトの完全長DNAを全て解読するヒトゲノム計画の募集があり、そのプロジェクトへの参加が決まりました。通勤のつもりが、研究所のすぐ近くに住むよう上長に言われ、そこから初めての一人暮らしが始まりました。

職場の勤務時間は朝8時から夜中の1時まで、というハードな仕事でした。
しかし、初めての一人暮らしで、辛いことも楽しいことも全部経験できました。

結婚は、跡取り娘として家を継げない縁談は破断となりましたが、
職場で出会った方が一緒に家を継いでくれることになり、
家族皆からも祝福を受け結婚がきまりました。

母屋のすぐ隣の土地に、母が生涯働いて得た退職金を惜しみなく、全て使って新居も建ててくれ、そこでの新生活がスタートしました。
これでようやく幸せになれると思ったのもつかの間、思い描いた結婚生活は全く上手くいきませんでした。

初めての妊娠は、子宮外妊娠で卵管を摘出し、それから辛い不妊治療が始まりました。間もなく単身赴任にもなり、身も心もボロボロになりながら、夫の単身赴任先を訪ねていった有る日、「もう愛してないから別れてほしい」と言われ、その絶望を祖母に打ち明けた1週間後に、最愛の祖母が他界してしまいました。

私は1週間のうちに、最愛の人を2人同時に失いました。
失意のどん底の中、祖母の部屋に毎晩寝泊まりし、祖母の部屋の本棚にぎっちり詰まった、仏教の本や精神的な本を片っ端から読み漁りました。そこで因果応報や因縁という言葉と出会い、そこでやっと自分の在り方が間違っていたことに気づきました。
今まで、どうして私ばかりこんな辛い思いをしなければいけないんだろうと、不満ばかりで、上手くいかないのは全て相手のせいにしていた自分に、そこでやっと気づくことができました。全ては自分が招いたことだったのです。

そこから私の人生は一変し、薔薇色に変わっていくかのように見えました。

母の知人から今の夫を紹介してもらい、トントン拍子で結婚することが出来ました。
間もなく不妊治療で苦しんでいたのがウソのように、愛娘も授かることができました。

毎日が幸せ。
こんな幸せがずっと続くと思っていました。

しかし、今度は復帰した職場の人間関係で、新たな鬱状態になる程の深い苦悩が始まりました。
人前での上がり症は益々酷くなり、職場で5-6人という少人数でのミーティングでさえも、あぶら汗、心臓バクバク、胃が口から飛び出る程の極度の緊張状態で、出す声も手も震えていました。
両親にも、40歳を過ぎても、ヨイ子の自分しか見せられずに、いつも息苦しく我慢して抑圧している自分のままでした。意を決して相談しても、両親の意にそぐわない時は、全力で反対され止められてしまいました。

私は何てダメなんだろう。自分はダメダメ人間のベースギターが、胸の奥底で24時間ずーっと鳴り響いていました。

私は藁をもすがる思いで、どんどん精神的な世界へ入っていきました。
そこで本来の自分は完璧な存在、神のような自分がいる、今の現実は「自分の状態が外側に反映されているだけ」ということを知りました。

そしてこれまで研究機関や製薬会社の研究所でヒト疾患などの研究に携わっていましたが、ヒトの意識のパワーの可能性にも興味を惹かれていきました。

そして、こんな我慢ばかりの人生はやめて、他の人たちのような楽しい人生、好きな仕事で自立したい!と思うようになり、色んなセミナーや自己啓発を受けていたところ、

1年前に、「潜在意識、集合意識、日本人の魂」というキーワードが、やけに気になり、半年間の集合意識覚醒講座に、人生で初めての大決心をして入りました。

そこで、自分の人生に大きく関わっているのは親子関係だと教わりました。鬱状態になる程の職場の人間関係の悩みも、親子関係の現れだったのです!

そこで、潜在意識だけでなく、集合意識を活用して、親子関係の改善がどんどん進んでいきました!

すると、今まで起きてきた全ての出来事が、180度感謝に変わりました。
全てのことが必要不可欠だったと分かり、点と点が繋がって、掛け替えのない宇宙からのギフトだと分かりました。
反対ばかりされていたと思っていた両親への想いも180度一変し、心の底から感謝に変わりました。今まで本当に全力で、自分を守ってくれていたと心底理解できました。
そして間もなく、職場の人間関係もアットホームな温かい人間関係に変わったんです!

今まで、いろんなことを親にナイショで、仕事に行くと嘘をついてやっていたことも、私は○○をやりたいからどこそこに行く、○○をやりたいから会社をやめようと思う、と心の奥底の本音を言えるようになりました。
そして両親は、良い意味で諦めてくれ、温かく見守り、また全力で協力してくれるようになりました。

さらに、
あの酷い緊張状態もウソのように無くなり、4人以上の人前で話ができるようになったのです。

何故4人だったのかは、あの毎週日曜日の家族会議が影響していたのではと今振り返ると思います。両親・祖母という大人3人を目の前にした家族会議は、幼少期の元々怖がりだった私を更に強化したものでした。

24時間、胸の内側で鳴り響いていた自分ダメダメ人間のベースギターは、今では殆ど聞こえなくなりました。

そして、たくさんの人にも会えるようになりました!

まだまだ、過去の習慣で、以前の癖に戻ってしまうこともありますが、

私は自分に宣言したんです。
「もう我慢はしない!」って。
「もう、自分が本当にやりたいことをやらせてあげよう!」って。

そうしたら、いろんな不思議なことが起きてきて、こうして皆さんに体験をシェアできるまでになりました!

私と同じように、我慢している、言いたいことが言えない、親の言う事には逆らえない、
そんなあなたに、私は光であなたを照らしていきます。

もしよかったら、一度、私とお話してみませんか?

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