エッセイ#35『古本屋の思い出-中篇-』
きっと本は生きている
1年程アルバイトを続けてわかったこと、それは「本は独りでに動く」ということだ。
皆さんも書店や古本屋で経験したことがあるのではないだろうか。本棚に並べられた本の上部の隙間に、その売場とは関係のない本が横たわっていたり。平積みされた本の上に、数ブロック隣の本が置かれていたり。それはきっと、本が勝手に動いたことが原因だろう。
一度、私はこんなことを考えた。お客さんが一度手に取った本を、やっぱりいらないからと別のコーナーの本棚に置いたのではないか、と。しかし普通に考えて、真っ当な人間がそんなことをするはずがない。元の場所に戻せば済む話だし、売り場がわからないのなら店員に聞いてくれれば探すのを手伝うからだ。
だから、きっと本は生きているのだ。
少し昔の日本人が「體」という字の新字体に「体」や「躰」を当てたのにも納得がいく。本は人と同様に生きているからだ。
皆さんも書店や古本屋で移動中の本を見掛けた時は、元の場所に戻るように優しく注意してあげてほしい。そうすれば全員が気持ち良く本を探せるし、店員の手間も省かれる。
◇
昇給
私がアルバイトを始めた頃、千葉県の最低賃金は895円であった。全国の平均から考えれば、かなり高い方ではあったが、南関東では最低である。ちなみに東京都が985円、神奈川県が983円、埼玉県が898円であったが、その年の10月から東京都と神奈川県は1,000円超えの大台に乗った。
当時大学1年生でアルバイト経験のなかった私は、お金が貰えるだけで有り難く、最低賃金なんかは全く意識していなかったが、それでも東京都での求人広告を見る度に「凄いな~」と思っていた。
まれに東京に本社がある企業の単発バイトもしていたが、時給が1,200円だったり交通費が支給されたり、上京勢がとっくに経験しているであろう驚きを半年以上遅れて味わうこともあった。
そんな、全国的には好条件だが南関東では不遇な存在である千葉県も、関東地方では丁度真ん中になる。群馬県が809円、栃木県が826円、茨城県が822円であり、北関東3県出身の者が上京を強く希望するのも納得である。
そしてついに、2022年10月1日から千葉県の最低賃金が984円となり、それに伴い時給も1,000円の大台に乗っかった。これは快挙と言って良い。また、始めた頃は1,200円くらいだった深夜給も、昨年の年末頃から1,500円となり、3年前の都内と同じ状況になった。
ただ、依然として南関東では最下位である事実は変わっていない。
◇
指導
アルバイト開始から2年が経過した頃、私にも初めて後輩という存在が誕生した。正確には、自分が教育を担当する後輩が入ってきたのだ。
勤務開始以降、レジ打ちも買取もせずに古本の整理ばかりを担当していたため、古本の管理に関しては、アルバイトの中では上から数えた方が早いレベルにまで上がっていた。それで私が新人アルバイトの教育係に任命されたというわけだ。
店長の船橋さんから教育係の話を持ち掛けられてから1週間程が経過した日、その後輩はやって来た。彼は野田君と言い、私の2歳下で大学1年生だそうだ。
私が整理の仕方などを実践を交えつつ説明している最中、野田君は適度に相槌を打ち、沈黙が生じないようにしてくれた。しっかりと他人の目を見て話せるタイプの人間だ。きっと彼は数ヶ月後にはレジ打ちをしているのだろう。
私の説明が終わると、いよいよ野田君が棚入れを行うターンに突入する。彼が作業をしている間は正直言って暇なので、やり方に間違いがないか確認しつつ、世間話を持ち掛けることにした。私は彼が先程、大学1年生だと言っていたことを思い出し、大学での専攻などを聞くことにした。
すると、衝撃の事実が発覚した。なんと、彼は私と同じ大学の別の学部に通っていたのだ。それならば話は早い、学部は違えど同じ大学なので共通言語は多いはずだ。しかし野田君が通っている理系の学部は千葉に、私が通っている学部は東京にあるなど、実際には合わない部分がかなり多かった。(東京と千葉にキャンパスがあると聞いてあの大学を思い浮かべるかもしれないが、決して「ここが凄い!」の大学ではない。)
色々と合わないながらも大学の話には花が咲き、私にしては珍しく1時間程で打ち解けることに成功した。しかし、そんな彼も1年も経たないうちに古本屋のアルバイトを辞めてしまった。
作業中の会話の相手は、後にも先にも野田君だけである。
◇
島耕作と広末涼子
古本屋のアルバイトを始めてから、安価で売られている欲しい本を何度か発見した。しかし、プライベートで店を訪れることができず、大体の場合は他の店舗で同じ本を探すか、ネット通販で買うことにしている。
よく、バイト先の服屋で欲しい服を買ったり、ファミレスの好きなメニューを賄いとして食べる、という話を聞くが、私には絶対に無理だ。いくら安くても、同じ職場で働いている者に自分の趣味を知られるのが、嫌で嫌で仕方ないのだ。
そんなわけで私は、アルバイトの3年半の間、自身の手で何かを買うことはなかった。
ある日、漫画『部長島耕作』の文庫版の全巻セットが、1,600円の超お手頃価格で販売されているのを発見した。欲しい。しかし買えない。これはジレンマと言うべきか、二律背反と言うべきか、単なる意気地なしと言うべきか。
当時の私は、結構本気で悩んでいた。この機会を逃すと二度とこの値段では買えないかもしれない。こんなことを何日にも渡って考えていたのだ。
発見から1週間が経過した日、ある名案を思いついた。友人に代行を頼めば良いのだ。自分がライブ会場に行けない場合、現地参戦する友人にグッズ購入の代行を頼むのは往々にしてあることがあるが、これと全く一緒だ。レジに行けない私に変わって、レジに行ける友人に頼めば良いのだ。
私は早速、小学校時代からの友人である松戸君に連絡した。松戸君は地元の中学を卒業した後、専門学校に入学し、現在ではよくわからない仕事に従事している。ゲーム関連だったり、IT関係だったり、はたまたアパレルブランドだったり。会う度に違うことをしているので、あまり仕事については触れないことにしている。
彼は現在、横浜でルームシェアをしているらしい。千葉からだとかなり距離があるので諦めようかと思ったが、松戸君は意外にも乗り気であった。どうやら帰省も兼ねて、私のアルバイト先に来てくれるそうだ。持つべきものは友だ。これで『部長島耕作』の全巻セットが手に入る。
作戦決行の日が、松戸君と会った最後の日である。あれから大学の実習などの関係でべらぼうに忙しく、中々連絡を取れていなかったが、きっとまた会える日はやってくるだろう。その時は島耕作の借りを返すために、ワインを振る舞おう。
中学の後輩の車でドライブをしていた時、偶然バイト先の近くまでやって来たので、中に入ることになってしまった。どうやら私がボソッと言った「広末のポストカードブック」が後輩に刺さってしまったらしい。
私は他の店員にバレないように細心の注意を払いながら、「広末のポストカードブック」がある写真集のコーナーへと歩を進めた。正式な作品名こそ覚えていなかったが、検索した限りでは『FLaMme』という名前のポストカードブックが有力だ。念の為、オークションサイトなどで販売されているものの画像を見てみたが、これで間違いないだろう。何と読むかはわからないが。
この、「フラメ」だか「フランメ」だか「フランミー」だかを求めて、これがあったはずの棚を覗いてみたが、どれだけ探しても見当たらない。昨日までは確実にここにあったし、1ヶ月近くは売れていなかったはずだ。それに周りの写真集よりも3回り程小さいため、探し出すのは至難の業であったに違いない。それでも売れてしまったのだ。やはり、古本屋は一期一会の連続であり、広末涼子はいつまで経っても人気なのだ。
ちなみに「FLaMme」は「フラーム」と読み、広末涼子の所属事務所と同じ名前らしい。
後篇へ続く