エッセイ#37『古本屋の思い出-後篇-』
店長
私のアルバイト史上最大の転機が訪れたのは、大学4年の初夏のことである。これまで店長を務めていた船橋さんが、職場を移動することになったのだ。
いつも通り漫画の棚入れ作業をしていると、80円コーナーの本の何冊かが背表紙を上に向けた状態で置かれていた。また誰かがイタズラをしたか、本が独りでに動き始めたのだろうと思い、元の状態の戻すと、全く面識のない男性に声を掛けられた。
「おーい、それ戻しちゃ駄目だよ~」
そう言ったのは「エリアマネージャー」を名乗る人物で、スマホのような機械で漫画のバーコードを読み取っていた。話を聞くと、どうやら私(というか店舗)の棚入れのやり方が本社の方針に合っていないらしく、間違った場所に入れられている本を全てピックアップしている最中だったのだ。
その後、エリアマネージャーの指示に従いながら棚入れを進めていると、私から少し離れた場所で船橋さんが叱られ半分で指導を受けていた。私は、自分を教育してくれた人が叱られている様子を見ていられない。高校の担任の先生や教科担任達が、学年主任から説教されているところなんかは、その代表例だ。
それが原因かはわからないが、その2週間後に船橋さんは店舗を去った。その後何度か顔を出しているため、あくまで職場が変更されただけだとは思うが、少々心配だ。
その後新たにやって来た店長は佐倉さんという年齢不詳の男性で、20代後半にも見えるし、50代と言われればそうも見える。
佐倉さんが店長に就任してからは、忙しい日々が続いた。前店長の船橋さんが無視していた、店員が本来すべき棚入れのルールを全て把握し、今並んでいる本を徐々に正しく並べ直さなければならなくなってしまったのだ。それはそれは中々の大工事になったが、なぜこの間違った棚入れが今まで指摘されなかったのだろう。エリアマネージャーが持っていた例のスマホみたいな機械も、店長が変わってから初めて渡された。
現在の並べ方が正しいのかどうかはわからないが、正しくても誤っていても指摘は特にされないので、気楽なように見えてある種の不安を孕んだ作業である。
◇
シフトの融通
私の大学ではカリキュラムに、限りなく必修に近い選択の実習が組み込まれているため、その期間はほぼ毎日朝から晩まで東京の大学に籠もらなければならない。その影響で数週間まるまるアルバイトが出来ない期間が年に何回か発生し、その度にシフトを店長に調整してもらっていた。
よくよく考えてみると凄い話だ。採用条件が週3以上だったのにもかかわらず、平気で2週間以上も出勤しないのだから。恐らくこれが人手不足の飲食店とかだったら、こうはいかないだろう。
船橋さんが店長を務めていた頃は、最初の実習以降は特に説明をすることなくシフトを組んでいた。(その頃は紙でシフトを提出していた。)
しかし佐倉さんに変わってからが、少々面倒臭かった。「ん、この期間はどういうこと?入れないの?」と、やや詰問気味に聞かれたが、船橋さんがこれでOKを出していたことを伝えると、すんなりと理解してくれた。ちなみに、佐倉さんとしばらく一緒にいてわかったことだが、どうやら普段の話し方が早口である上に、男性にしては声が甲高いため詰問のように聞こえるだけで、本人にそのつもりは一切ないらしい。
◇
最終日
そしていよいよ最後の出勤日である、令和5年1月15日がやってきた。私はこの日の朝、今までお世話になったバイト先の方々に配るためのお菓子を買いに、池袋の西武へと向かった。
商品名は忘れてしまったが、20個くらいが箱に入ったバターサンドを購入した。決して高いものではないが、自分が出せる限界である2,000円前後の商品を選んだ。
最初は単調で変化のないような仕事に感じていたが、思い返すと喜怒哀楽のどれかしらの感情は抱いていた日々だった。ズル休みすることもなければ病欠もなく、自粛期間や就活の期間も普段通りにシフトを入れていた。大学生活と共に歩んだバイト生活ある。なんなら大学よりも古本屋の方が、足を運んだ日数は多いのかもしれない。
この日の夕方は雨だった。完全に降っていないつもりで自転車を漕ぎ始めたら、お菓子の紙袋が徐々にふやけ始め、大変見すぼらしくなってしまった。気付いた時には、もう家に帰るのも億劫な所まで進んでいたので、諦めて小雨の中を雨合羽も着ずに自転車で突き進むことにした。
アルバイト先に到着し佐倉さんに挨拶をすると、普段と変わらない挨拶が返ってきた。薄々覚悟はしていたが、最終日だからといって特別な待遇はないらしい。私は普段通りに着替え、普段通りに打刻をし、普段通りに手を洗い、普段通りに仕事を始めた。
勤務開始から1時間が過ぎ、2時間が過ぎ、閉店時間つまり退勤の時刻がやってきた。片付けをいつも以上に入念に行い、佐倉さんの元へと一目散に向かった。しかし、事務所のどこを見回しても佐倉さんの姿が見当たらない。まさかと思い別のアルバイトの人に尋ねると、「あ、そうっすね、店長は先程帰られましたよ。」と考え得る限りで最も嫌な言葉が返ってきた。
やばい。帰るに帰れない。お菓子も買っちゃったし。
私はとりあえず佐倉さんの仕事用の携帯電話に電話を掛けろことにした。
「お世話になっております。〇〇店の〇〇です。」
「あー、どうも!どうした?」
「あのぉ、僕今日が最後のバイトだって聞いていたんですけど……。」
「……。あ!そっか、そんな話だったっけか。」
「はい、そのつもりでした。」
「ごめん、え、あ、そうかぁ。」
佐倉さんとの話し合いの結果、私は在籍期間を1ヶ月延長し、その期間のシフトを全て有給休暇ということにして、事実上の勤務終了ということになった。つまり契約上、私はまだアルバイト店員として籍を置いていることになる。そう、私はバイトを辞められなかったのだ。
来月までに合間を縫って、業務終了の規約をしに行かなければならない。その日のことは、またどこかで記すことにする。
◇
あとがき
ここまで、歓迎会や面倒な客人に対しての愚痴や、他の店員との交友関係などを長々と綴ってきたが、結果として古本屋でのアルバイトは「楽しい経験」の部類に入ったと考えて良いだろう。ほぼ唯一の長期バイトとしては最良の選択であった。
アニメや漫画の流行は「人気コーナー」や「映像化コーナー」を見ればすぐにわかるし、流行りの音楽は店内を流れる有線放送に耳を傾ければどうにかついて行ける。しかしアルバイトを辞めた今では、それらを見聞きする機会が一気に減ってしまったので、これからはどのようにして流行を押さえるかが、私の中での密かな問題となっている。
前篇・中篇・後篇に渡って書いてきた12個の話の他にも、面白く感じたエピソードは沢山あるので、それらもいつか発表していきたい。個人的には「異様に点検表の文字が大きいパートのおばさん」の話なんか面白いのではないかと思っている。
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