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推しのいる生活



「推し」


いまや当たり前になりつつある
この言葉に懐かしさを感じる今日この頃。

わたしにも以前は「推し」がいた。

ライブがあれば遠征に出かけ
雑誌やらキャンペーンやらの情報を
必死に集める。

売り上げや人気に貢献したいと
グッズを必要以上に購入。

専用アカウントを複数開設しSNS活動。
とにかく「推し」を布教する。

今思うとおかしかったのは
同じ日時・同じ会場のライブチケットを
複数枚購入し「推し」の立ち位置や
見える位置を確認してから
席を選ぶなどしていた時もあった。

電子チケットが普及し
友達に譲りにくいこともあって
余ったチケットはお金だけ支払う。

厳密には名義変更などをすれば
チケットを譲ることも可能だが、

ファンでもない友達に
「チケット余ってるけどいく?」と誘って
めんどくさい手続きをしてもらうのも申し訳ない。

まあ、そんなもったいないことをしてでも
よりいい席でライブが見たい!!!
という推し活心が
当時は勝ってしまっていたのだ。

推し活をする側にもプライドがあって
不正なチケット取引は絶対にしなかった。

よく「〇〇のファンは民度が低い」などと
グループ名と民度という言葉で
話題となることがある。

「民度が低い」というのは
推し活当事者にとってはキツイ言葉だ。

それに推しのためにも
「民度が低い」と言われないようにしなきゃ
とよく分からないプライドがあった。
今では懐かしい思い出だ。


しかし「推し」を失った今、推し文化について
すこし疑問に思うようになった。

「推し」が映るからと興味のない番組を見る。

そしてたとえ内容が面白くなくても
「推し」を褒め、面白かったと嘘をつく。

「推し」がコラボした商品を
デザインや色が好きじゃないのに購入する。

苦手な食べ物と「推し」のコラボ。
わたしは食べられないのにも関わらず
その商品を購入したこともあった。

(中身は家族や友人に食べてもらいました)

このように「推し」だからという理由で
自分がいいと思ってない物や事を
人に薦めたり、購入したりということが
推し活文化とともに広がっているのだ。

さらに、ある界隈では
「推し」の動画の再生数を上げよう
という取り組みが行われていた。

24時間、「推し」の動画を連続再生し
再生数に貢献するらしい。

「推し」の再生数が回れば
人気があると世間から認知される。

そうすることで「推し」の活躍の場が
増えるという考えらしい。

推し活の勢いに頭が上がらない。

最近では、X(旧Twitter)のトレンドなどでも
そのような活動はよくみられる。

冷静に再生数やトレンドを観察すると
数字と人気の乖離を感じることがしばしばある。

ハッシュタグをつけたレビューも
もはや当てにならない。

わたしも実際、肯定する言葉の数々や
「すごく感動した」というレビューに
騙され、作品を見たことがある。

「推し」を肯定したい気持ちは分かるが
少しモヤモヤした。

そう、一般の客にとっては迷惑な話なのだ。

数字と実力は必ずしも合致しない。

再生数もトレンドも
もはや「まやかし」なのかもしれない!


内容やその商品の自体に
目を向けることを忘れてはならないと
「推し」を失った今、わたしは思う。

推し活する人の純粋な推し心を
利用する現象が減ることを切に願う。

行き過ぎた推し活は
人々を幸せにするのだろうか?

「推し文化」の勢いは今も凄まじい。


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