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主観で見るか、俯瞰で見るか
ラッパー、シンガーのLUCKDAR(ラクダ)と申します。
YouTubeやApple Music、Spotifyをはじめとしたサブスクにて、音源やMusic Videoを配信しております。
無性にコーヒーが飲みたい朝でした。
あまりコーヒーに拘りがない私ですので、近くのコンビニでドリップコーヒーを購入し、冷めないうちにと車を走らせ、ふと目が止まった公園の駐車場に腰を落ち着けました。
だいたい休日の朝というのは、私にとっては昼過ぎを指すのですが、その日はなんだか目が冴えてしまい、どうせならばと外に出た次第です。
朝というには少し遅めの午前10時。
公園には数組の親子連れが、日向の温もりのもと楽しそうに過ごしていました。
上着なしではなかなかに厳しい1月の寒風に吹かれ、コーヒーの熱を右手に感じながら、柄にもなくベンチに腰掛けた私は、スマホを取り出すなどという無粋なことはせず、日光と戯れる子どもたちに目をやりました。
砂場で遊ぶ子ども。
公園が子どもたちの憩いの場と呼べなくなってきた昨今、微笑ましいその光景にしばし時を忘れていると、立派な砂の彫像が、その小さな手によって形づくられていました。
かわいらしいクマさんだなぁと見守っていると、近くにいたお母さんに「猫できた〜」と完成報告。
猫だったんだと、口元が緩む私。
束の間の穏やかな時間を過ごすと、私は帰路に着くことにしました。
コーヒーの余韻が鼻をくすぐる車内で、先日リリースしたばかりの自身の新曲を再生しました。
我ながら自信作ではあるものの、思ったほどの反響は得られず、少々意気消沈気味の私は、青から黄に変わった信号を前にブレーキに足を乗せました。
数台の信号待ちの最後尾、私はふと路肩に目をやりました。
ずっとパン屋さんかカフェだと思っていたお店が、美容院であることに気づき、青信号に出遅れてしまいました。
思い込み、勘違い、偏見、固定観念、先入観。
私たちは日々、それらのノイズによって物事を正しく判断できなくなっています。
本来はそうでなくとも、自身でこうだとレッテルを貼ってしまい、得られた筈のチャンスを逃したり、遭わなくていい不幸に遭ってしまったり。
物事は見る角度によって、驚くほどにその姿形を変えます。
自分が見ているほんの一面が、全体像だと勘違いをしてしまい、早計してしまうのはあまりに勿体ないのです。
自身の人生の時間を「生まれてから死ぬまでのマラソン」と捉えると、それはカウントダウンですが、「重ねてきた年齢」、「蓄積された経験」と捉えると、それはカウントアップに変わります。
人生というものは何も変わっていないのに、見る角度、視点を変えるとその意味合いは180度変わるのです。
上手くいかない、成果が出ないと悩んでいても、それはあなたが進んでいるからこそ感じられるのです。
ずっと同じところに止まっていたら「成果が出ない」ではなく「変化がない」はずなので。
努力し、一歩ずつ着実に進んでいるからこそ、焦りや孤独を感じるのです。
人生の道のりは先の見えない霧であり、照らすことのできない暗闇なのです。
でも後ろを振り返ってみてください。
確かに進んできた足跡が、点々と続いているはずです。
自信とは経験の轍(わだち)であると考えます。
そして焦燥は前進の証でもある。
熊に見える猫の砂像も、パン屋のような美容院も、その事実自体は普遍で、それを私がどのように捉えたかに過ぎなかった訳です。
ですから、私が"ウケなかった"と感じている私の音楽も、どこかの誰かにとってはこれ以上ない名曲であるかもしれないことは、誰にも否定できないことなのです。
主観に支配され、塞ぎ込んでしまいそうな時こそ、一度引いた視点で物事を捉え、影に隠れた事象に気付けるようにしましょう。
立ちはだかる壁も、視点の位置を変えるだけで、案外簡単に越えられるものかもしれません。
よく「神様は乗り越えられない試練は与えない」と言いますが、乗り越え方に気付くことこそが、成長の本質なのではと私は思います。