言葉に宿るチカラ
ラッパー、シンガーのLUCKDAR(ラクダ)と申します。
YouTubeやApple Music、Spotifyをはじめとしたサブスクにて、音源やMusic Videoを配信しております。
前回の記事では、生成AIについて私なりの見解を述べました。
また、過去に自己紹介の記事も書いております。
よろしければ併せてご覧ください。
皆様は車を運転していて、「一時停止」の標識が目の前に現れたら、恐らくほとんどの方が車のスピードを緩めるかと思います。また、「一方通行」や、「通行止」等の標識も同様に、視界に入った瞬間に、意識を向ける対象となることでしょう。
今回のテーマは、「言葉」の持つ力、影響力について、お話をさせていただきたいと思います。
言葉というものはとても不思議です。
「好き」と言えば愛が伝わりますし、反対に「嫌い」と言えば憎しみが伝わります。
「おはよう」は朝の挨拶で、「おやすみ」は寝る前の挨拶です。
誰が決めたのかは知りませんが、世の中はそのようにして回っています。
一部の捻くれ者は置いておいて、基本的に「入口」と書いてある場所から入り、「出口」から出ますよね。
言葉には人の行動をある程度コントロールする力があるようです。
歌を聴いて感動し涙を流したり、落ち込んでいた気持ちが上向いたり。
本を読んで感銘を受けたり、怪談に恐怖したりと、人は言葉の持つ魔法の力によって、時に感情さえも支配されてしまうのです。
私は言葉とはすなわち「呪詛」であると考えております。
"呪"という文字は穏やかではありませんが、いわゆる「まじない」のようなもので、ポジティブな意味合いもあれば、ネガティブな作用も起こす。
そんな「呪詛」を、私たちは日々口から発している訳です。
「いってらっしゃい、気をつけてね」
「幸運を祈っているよ」
などはポジティブな呪詛。
反対に「うざい」、「きもい」などは、ネガティブな呪詛です。
そういったものが無意識に記憶され、行動や結果に反映されることは、大いにあると思います。
「言葉」を使って表現を行うラッパーやシンガーは、その"使い方"において、もたらす影響や責任について、一度考える必要があると私は感じています。
言葉は弾丸と同様、一度放たれたら最後、口に戻ることはありません。
それが相手の心に刺さり、感動を与えることもあれば、深いトラウマを植え付けてしまうこともある。
人を助ける救いの手にもなりうるし、傷つける凶器ともなる訳です。
そのような二面性を持った言葉を、私はどのように使うべきなのか。
私は曲をつくる上で共感を求めたり、誰かに寄り添うような曲作りをしておりません。
自身の考えや社会の風刺を、淡々と歌っているに過ぎないのです。
正解はない音楽ですが、このスタンスこそが私なりの「言葉を使うこと」への責任の取り方だと考えます。
誰に当てはまらなくともよい。
独りよがりの音楽でよいのだと、私は考え曲をつくっております。
安易な共感は、逆に誰かを傷つけてしまうかもしれない。
ある意味で無責任な創作活動ですが、そこに何かを感じ取ってくれた方が、私のリスナーなのであります。
ライブをさせていただく中でも、「とても引き込まれた」、「感動した」と仰ってくださる方々が多数いらっしゃり、私のこのスタンスは間違っていないのだと、胸を撫で下ろしております。
音楽を通して伝えたい主義、主張がある限りは、私は活動を辞めません。
反対に、伝えたいことがなくなってしまえば、私は活動を続ける意義を失います。
しかしながら、趣味の枠を超えた音楽活動ですので、どうしても商業主義に偏らざるを得ない場面も多く、そのジレンマに悩まされながらも日々生きております。
「刺さる人にだけ刺さればいい」
それだけでは飯は食えないので、仕方のないことなのかもしれませんが、自信を持ってアクセルを踏み込めないのは、そんな"標識"が、私のスピードを抑制しているからなのかもしれません。
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