<MBTI>性格診断は科学でも占いでもないという話
16タイプ性格診断に対する批判としてしばしば「こんなものは非科学的だ!インチキだ!」というものがある。
一方で特に中高生辺りを中心に、かつての血液型診断を彷彿とさせるようなプロフィールを書いている人間も多い。
しかし、性格診断は科学でもなければ占いでもない。両者の中間にある「解釈論」というべき存在である。今回は性格診断の本質とは何かということについて考えてみよう。
科学とはなんだろう
16タイプ性格診断は非科学的だと言われるが、そもそも科学とはなんだろうか。自然科学は自然を本当に実在するものと前提を置き、その性質を実験を通して検証していく行為の積み重ねだ。酸素と水素を燃焼させると水が発生するし、物体を投げると放物線を描く。こうした現象は何回追試を行っても同様の結果が出るし、いつでもどこでも検証できることである。
ここまではっきりしなくても、科学というものは成立する。例えば社会科学は実験が難しい。しかし、その正しさを検証することはできる。日本が少子化していることを示すなら、総務省の統計を引っ張ってくればいい。もし主張が間違っているのなら、別の手段で反論が可能だ。こうした検証可能性備えている限り、科学ということができる。(厳密には反証可能性なのだが、気になる人はポパーについて調べてほしい)。
しかし、16タイプ性格診断は科学ではない。人間の性格は複雑極まりなく、常に移ろいゆくものだ。人によっても解釈が分かれる。例えば「坂本龍馬はマジメな性格だった」という証言と「坂本龍馬は不真面目だった」という証言が両方並立していることがある。おそらくその個人の印象はそのとおりだったのであり、第3者が反論する内容でもないだろう。
ビッグファイブ性格診断はより科学的だが、まさにその理由で使いにくい。自由に解釈や発展をさせる余地が少ないのである。また、客観性が高すぎて人間に優劣を付ける形になってしまうのも気がかりだ。ビッグファイブがそれほど流行しないのは非対称性が原因だと思われる。
占いとはなんだろう
今度は占いについて考えてみよう。占いは非科学的であるばかりか、全く根拠が存在しない。例えばしし座の人間が金持ちになりやすいという占いがあったとしよう。その人間の誕生日と経済的な能力には全く因果関係が見いだせない。おそらく検証しても否定されるはずだ。一般的な常識から考えても、両者の相関は否定されるはずだ。
しばしば血液型性格診断と16タイプ性格診断は同一視されるが、これも間違いだ。A型の性格やB型の性格が提唱可能であることは否定しない。血液型性格診断がおかしいのは血液型と性格に相関関係があるという部分だ。A型やB型がその人の血液型と独立して存在するのならこの分類法には納得がいく。しかし、血液型性格診断は全く別の根拠からその人の性格を予測しており、占いと何ら変わらないのだ。
16タイプ性格診断はこれらとは異なる。あくまで性格は性格として範囲内にとどまっているからだ。人間考察は多くの人間が人生の中で行っているし、それらは単なる占いではない。「短気」とか「優しい」といった人間の性格に関する形容詞はすべての言語に豊富に備わっているし、16タイプはそれらを4次元的に並べたものだ。「あの人は魚座だから上司に好かれるはずだ」という言説と、「あの人はとても紳士的だから上司に好かれるはずだ」という言説は到底同じにはできないだろう。
性格診断とは解釈論
科学を絶対視する人間は多いが、世の中の言説の大半は科学ではない。それどころか学問ですら科学的でないものもある。
例えば「白石麻衣は美人だ」という言説はどうだろう。白石麻衣の美人さを科学的に検証することは難しいし、人によっても見方は分かれるはずだ。それでも「白石麻衣は美人だ」と言っても「非科学的だ」とか「根拠を示せ」と批判される訳では無い。多くの人間の感性の中では白石麻衣は美人であり、2918年にはCM女王となっている。もちろん「白石麻衣はブスだ」という者もおり、その見解を否定することはできないだろう。
別の例を出そう。世界文学の中でも傑作と呼ばれるのはドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」だ。この事実の根拠を示すのは難しいだろう。「カラマーゾフの兄弟の売上は〇〇部だ」とか、「カラマーゾフの兄弟を読むと血糖値が下がる」といった言説は容易に検証が可能だが、カラマーゾフの兄弟の素晴らしさに関しては科学的に検証は不可能だ。「カラマーゾフの兄弟は下らない」といっても反論されることはないし、1つの見解として尊重されるだろう。それでもカラマーゾフの兄弟が名作とされているのは世界文学に詳しい知識人の見解として共有されているからである。
このように世の中には科学とも非科学とも付かない世界が広大に広がっている。これらは全て人間の解釈によって作られるものであり、「解釈論の世界」と呼んでも良いだろう。「スローライフの方が幸せになれる」とか「東大理三以外は全てカス」といった言説も全て解釈論だ。これらを非科学的な迷信と言わないのと同様に、16タイプもまた非科学的ではないのである。
解釈論が非科学的にならないようにするには検証可能性のある世界の話を持ち込まないことだ。先程の血液型性格診断が良い例だ。せっかちな人間やマイペースな人間がいること解釈論として認められるが、それが血液型という自然科学の世界の話と連結されることによって問題が発生するのである。
解釈論の世界に決着を付ける方法は2つ
自然科学の世界であれば実験という形で検証が可能だし、どんなに偉い学者の学説であっても実験で否定されれば終わりだ。経済学や歴史学といった分野は追試が不可能なため確信度が下がるが、それでも根拠を示して検証することは可能であり、科学の体系に近づけている。
しかし、解釈論の世界は客観的事実というものが存在しない。A氏の見解とB氏の見解のどちらが正しいか決定することはできない。A氏の説明によってB氏が意見を変えることはあっても、見解はあくまでB氏の主体的な判断に委ねられている。社会の多くはこうした解釈論の世界の言説だ。政治・経済・文化といったものは解釈論的に回っていることが多い。単純に数字で検証するのが面倒という場面もあるだろうが、本質的に検証不能な物事は多いのである。
実社会で解釈論に擬似的な決着を付ける方法は大きく2つある。それは多数決と専門家の合議だ。
多数決で決まるのは選挙や市場だろう。「トヨタの車の排気量は〇〇」という言説は科学的に検証可能でも、「トヨタの車は便利」というのは解釈論の世界の話であり、最終的にはユーザーの主観だ。そのため「トヨタの車が便利」という事実は市場という形で何億もの消費者の価値観の合成によって決定されている。
もう1つの方法は専門家の合議だ。人文系のアカデミアや最高裁判決はこの方式が取られている。一般人よりも知識が豊富な人が導き出した結論を一般人は受け入れようという方法である。先述のカラマーゾフの兄弟はこの例だろう。文学の専門家が揃いも揃って「カラマーゾフの兄弟は素晴らしい」と言っているので、きっと名作なんだろうという話だ。純粋な意味での権威主義ともいえる。自然科学のように一般人でも実験で反証すれば覆せる世界とは異質だ。
新型コロナを巡る一連の激しい論争は科学の世界と解釈論の世界、多数決主義の世界と専門家主義の世界の衝突の危険性を浮き彫りにした。反ワクチン勢力のやり方は間違っている。ワクチンは科学の世界の話なので、ワクチンの危険性を示すのなら検証すれば良い。彼らは広報運動に力を注いでいるが、これは解釈論の世界のやり方だ。
一方で一部の医療専門家のやり方も適切とは言えない。彼らは学術的な議論を振りかざすだけで、国民を説得しようともしなかった。新型コロナを巡る諸政策は本質的に政治の問題だ。政治家の仕事は真理の追求ではなく世論の形成だ。そのためには広報を通して人々の認識を高める必要がある。政治とは最終的には解釈論の世界であり、説得がうまい者が勝つのが解釈論なのだ。
性格診断が誤解される理由
性格診断はしばしば科学またはニセ科学と誤解されることが多い。原因の1つは性格診断に興味を持っている人間が科学の世界の話だと勘違いしていることが多いからだ。例えば一時期はやった右脳左脳論がそうだ。「右脳的」な人間と「左脳的」な人間がいることは否定しないし、これは解釈論の世界だ。しかし、それらが右脳左脳の科学的性質と連動している検証はない。すると、右脳左脳論は科学と大変紛らわしい解釈論ということになる。ここまで紛らわしいと科学だと誤解する人間が大半だろう。
16タイプ性格診断は右脳左脳論ほど悪質ではないが、それでも科学的に見えると認識する人間がいるようだ。どうにも性格タイプを4次元的に組み合わせるという方法が「理系的」に見えるらしい。四角くてピカピカ光るものがなんでも科学の産物に見えてしまうのと同じだろうか。
しかし、16タイプ性格診断は既存の性格を巡る言説と何一つ変わりはない。「あの人は意地悪だ」という言説を科学的に検証しようとする人はいないだろう。人間を「優しい・意地悪」で2分類できるのと同じように「I型・E型」や「S型・N型」といった分類も解釈可能だ。そして、それらを「ENFP」のように組み合わせるにも何も問題がないはずだ。レントゲンを3次元的に組み合わせてCTが誕生したように、既存の人間観察を4次元的に組み合わせたのが16タイプ性格診断である。
また、性格診断は占いとも言えない。「生命線が長いから寿命が長い」という言説が非科学的であることは明白だろう。ところが占いの多くは非科学的であるだけでなく、非解釈論的である。「あなたは優しいから出世するだろう」という言説は、相談者の人柄を解釈した上で言っているので、占いではなく立派な相談だ。しかし「おみくじで大吉が出たからあなたは出世するだろう」という言説は人格に関して何の関連性もない。性格分類は長年の対人経験から導かれる解釈の結晶であり、占いと同列のものとは言えない。
しかし、世の中には占いを好む人間は多く、同様のノリで16タイプに手を出しているようだ。1つは以前流行した血液型性格診断と外観が似ているからかもしれない。プロフィールに自分の性格タイプを書いて自分のキャラ付けに使うことも流行っているようだ。A型B型と同じノリでENTPとかESTJと記載しているようだ。
「16タイプは現代の血液型性格診断だ」という批判は多分に世間のミーハー層の認識が由来だろう。16タイプは飛躍的に流行しているので、こうした傾向はますます強くなると思う。INFPの人間からすると性格診断とは人間に関して深く理解するツールなのだが、ESFPにとっては性格診断は相手のキャラクターを特徴付けて楽しむためのツールなのだ。
事実なんてものは本当に存在するのだろうか
今までの議論は科学と解釈論を本質的に異なるものとして論じてきた。前者は「事実」を重んじるものであり、正解の出せる分野だ。後者は人の主観が全てでであり、人の数だけ正解がある。科学に必要なのは検証を通して真実を証明することであり、解釈論に必要なのは広報を通して多くの人間に解釈を受容してもらうことだ。
もっとも、本当に科学と解釈論の世界に境界があるのかは微妙だ。社会科学は科学の性質と解釈論の性質を併せ持つことが多い。例えば近代経済学が誕生してもマルクス経済学が駆逐されないのはこのためだ。そして実は我々が科学的事実と信じて疑わない自然科学も本質的には解釈論なのかもしれないとう見方もある。
認識問題は古来から哲学的論争の筆頭に挙げられてきたが、フッサールの現象学はその代表だろう。フッサールは「酸素と水素を燃やすと水が生まれる」とか「物体を投げると放物線を描く」といった「事実」も解釈に過ぎないと論じた。事実を事実と考える「自然的態度」は間違いだという。全ては人間の認知の中で作り出された虚像であり、客観性というものは存在しない。これを「現象学的態度」と呼んだ。
フッサールの意見によれば、我々が真理と呼んでいるものは結局のところ個々人の「認識のすり合わせ」に過ぎない。みんなが「物体を投げると放物線を描く」と納得しているから、それが「正しい」ということになる。この場合、自然科学も結局のところ16タイプ性格診断と変わらないことになる。
私は自然科学を解釈論の一環として考えてはいない。フッサールほど全てを観念論として考えているわけではなく、やはり自然科学は「事実」だと考えている。水分子も銀河系も人間の認識とは独立して存在しているはずだ。なぜ私がそう考えているかと言うと、社会のみんながそう考えているからだ。頭のいい人が軒並み物質は存在するという前提で行動しているので、私もそれに従おうと思う。これこそがまさに現象学的態度なのだ。意外かもしれないが、物事の絶対性を疑うことは他者との対話を生むことにも繋がるのである。
「認識のすり合わせ」という過程は16タイプを考える上で本当に大切だ。解釈は自分の中にしか存在しないとは言え、他の人間の知恵は大変示唆深い。仲間と16タイプ性格診断の議論をすることによって、一層人間に関する理解は深まるだろう。真実は人の中にしか存在しないとしても、人は孤独では生きていけない。16タイプを通して人と繋がることが少しでも幸福に寄与できたら、こんなに良いことはないだろう。