面接では絶対言わないワイのPC創世記

これはワイが小学生時代にいかにPCに触れるきっかけになったという創世記の話であり、どの様にしてプログラムなるものを知ったかという話である。

・小学3年(1981年)

ドイツ在住時、ゲームセンターへ通いまくり、アーケードのギャラガ、ムーンクレスタ、ドンキーコングなどにハマる。当時のドイツではネットもファミコンもなく、娯楽と言えば日本の書店で購入できる漫画、ゲームウォッチしくらいだった。そのため当時ゲーセンのビデオゲームにハマるのは必須だった。

・小学6年(1983年)

●親に「自分の小遣いでファミコンを買う」と宣言したものの「やめとけ」と一蹴され、代わりに「買うならパソコンや!」とMSX(Wavy6,64KBメモリ)と15インチテレビ、データレコーダ、「ラビアンのアルバイト(テープ版)」買ってくれる。今考えれば、テレビとMSX、データレコーダが全てサンヨー製だったためセットで安かったのかも知れない。
電気屋で「ROMも使えますよ」と言われて「ファミコンができる!」と喜んだものの購入後に実際には互換性がないことに気づき呆然とする。

●MSXとテレビの接続を自分で取り扱い説明書を読みながら接続を行う。当時はRCAケーブルを接続するだけだったので簡単だった。ファミコンはテレビの同軸アンテナ線に接続する方式で結線処理が必要だったが、MSXはその点は簡単だった記憶がある。

●最初は購入したラビアンのアルバイトを楽しく遊んでいたが、時期に飽きてしまい、仕方なくMSXのマニュアルを読みながらBASICを打ち込んで処理を楽しむ。ここから自分の自作ゲーム生活が始まる。

●しかし、マニュアルを読むものの、当時の自分の頭ではなかなかついていけずとりあえず文字型、RND、INT、IF THEN、FOR NEXT、GOTO、RENUM、DATA、マシン語、16進数、メモリなどを写経で覚えていく。スペース、タブなどもこのころに覚える。なのでまともにプログラムを勉強したことはなかった。

●やがて周囲でMSXユーザが少しづつ増えていく中でROMゲームやBASICマガジン、MSXマガジンなどの雑誌を読み漁るようになり知識を蓄えていく。その頃はネットもなかったし、プログラムを入力する場合は、コピペもないためひたすらに写経、写経でゲームを作り上げていく。

●ゲームを作り上げていくうちに意味はわからないがルーチン、サブルーチン、変数、関数などを理解していく。

●同時にデバグ、テストということを夏のクーラーのない部屋で自然と覚えていく。

・中学時代(1985年)

●友人4人とシューティングゲームをBASICで作ろうと言われ参画する。

●ワイ:スプライト機能を勉強して、16進数を2進数に変えてドット絵のキャラクタデザインをする。16*16の方眼紙に色を塗ってキャラを作成、当時のキャラは6色くらいまで出せたと思う(記憶が定かでない)。

●結局、友人のX1Fで開発し、横スクロールはマシン語を利用してシューティングゲームを作ることにした。ゲームが完成し、皆で大歓喜。

●ざっくり仕様としてはしては以下の様な感じ。
・ゲームは横スクロールシューティング。
・キャラクターは自機を含めて5種類程度
・開発機はSHARP X1-F model 10(友人機)
・開発言語はHU-BASICだったと思う。
・面数は5面程度
・BGMとサウンドも作る
・横スクロールはマシン語
・自機はタコ
・敵は蟹、薬瓶とバキュラの様な敵も出る
・テープ1本に収める。
・ベーシックマガジンに送ってみる 

●苦労したのはドット単位でスクロールを実装すること。マシン語を駆使してもどうしても3ドットくらいまでしかできずにラグの激しいゲームだったような記憶がある。結局、そのゲームはベーマガに送ったものの掲載されなかった。その後、一人は神戸大学⇨リコー、一人が薬科大学、一人は立命へ行ったと聞いたがその後の行方は知れず。

●その後はレンタルソフト屋でゲームを借りてはコピーしていくゲーム廃人学生生活となる。

●金のない厨房だったワイはいかにゲームを短期間で借りて自宅に持ち帰ってコピーするか!ということに必死になった。結果、コピーガードを早く外すというトライアンドエラーのスキルが上がる。

・高校時代

●ゲーム好きも講じて当時の友人(うち一人は任天堂の某ゲームプロデューサ)がファ●ロードや●ウトなどを勧めてきて、ペンとトーンの同人誌作成時代に突入していくのである・・・。

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