「愛の讃歌L'hymne à l'amour」・・・パリ・オリンピック

 橋の上では神々の饗宴中、バッカスが歌い終わる否や、彼の上に«暗闇Obscurité»のテロップが現れた。そこで舞台は変わり、セーヌ川の水上ステージに移る。何十人かのダンサーたちがまるで「闇」の恐怖・・・気候変動による干ばつ、洪水、森林火災・・・を表現しているかのように激しく踊る。その激しさが頂点に達したと思われたその瞬間、ダンサーたちは次々と倒れて、闇に包まれる。

この後、ダンサー達は次々と倒れてセーヌ川は暗闇に包まれる。

 暗闇が支配した川面に岩だらけの小島のような筏が現れ、その上で女性歌手とピアノ奏者が静かにジョン・レノンの«Imagine»を歌い出す。すると、伴奏しているピアノが突然炎に包まれる。それでも、奏者は静かに伴奏をしている。炎は闇を照らす光だろうか、それとも青春の燃えたぎるエネルギーだろうか(註)。

伴奏ソフィアーヌ・パマールSofiane Pamart と
«Imagine»を英語で歌うジュリエット・アルマネJuliette Armanet
ピアノが雨にぬれても大丈夫なのだろうか。
火よりもそっちの方が心配になった(火はもちろん偽物だから)。

 平和の祭典の開会式という文脈で見ると、前章の最後にバッカスが歌った«Nu裸»に込められた平和主義とジュリエット・アルマネが歌う«Imagine»に込められた思想は繋がり、合流する。«Imagine»の詩句(no heaven, no hell, no countries, no religion, no possessions, a brotherhood of man・・・)はオリンピックの開会式を演出したトマ・ジョリの狙いでもあり、フランス共和国の掲げている理念でもある。

 (註) こぼれ話的になるが、開会式についてのコメント欄で「ピアノが燃えている!」「危ないっ!」など書いている人たちがいたが、最後の聖火点灯の儀式をご覧になった人たちには、あれは熱を持たない炎であることがわかっただろう(さもないと、気球が落下する)。フランスでは舞台などでよく使われている。ついでに言うと、パラリンピックの開会式でピアノの上に乗って演技するシーンを見て、「ピアノを邪険に扱っている」「フランス人は楽器に対する愛がない!」「そういえば前の開会式でも、ピアノを燃やしていた」など様々な滑稽なコメントがあった。逆に言えば、見事に演出家の罠にはまったと言うことかもしれない。あれはすべて偽のピアノだし、炎も偽物だからだ。
 また、雨に打たれたピアノもたぶん、天気予報で当日には雨とわかっていたので値打ちもの(Steinway)で弾いていたとは思えない。ラヴェルの「水の戯れ」の時ピアノ奏者の手元が一度も写されていないので、生演奏かどうかすらわからない。前日に録音したものを使ったのだろう。と思っていたらピアニストのアレクサンドル・カントロフAlexandre Kantorowの記事が出ていた。読むと、ずぶ濡れになったスタインウェイSteinwayのことについて、彼は「全く問題ない」と断言している(F/sportフィガロ・スポーツ7月28日版)。ピアノの上は写真の通り水を弾いていたからそれほど問題ないとしても、鍵盤は濡れてしまう。映像で見えないけれども、もしかすると、鍵盤部分には覆いがあったのだろうか。そう思わざるを得ない(Imagineの時は?)。Steinwayのピアノは2千万円以上、中古でも6百万円以上するだろうから、使い捨てはできないはずだ(ゲスはこんなことを心配する)。

セーヌ川に浮かぶ艀のようなステージでピアノを弾くアレクサンドル・カントロフ、
写真で見てもピアノのカヴァーは水滴でいっぱいだ。
もっとも、曲目が「水の戯れ」なのがご愛嬌だ。
彼はこの後すぐにスイスに飛んで Verbier Festivalに参加したそうだ。

 章が変わって、映像は、騎馬姿で鎧をまとい、オリンピック旗をマントにして疾駆する女性を捉える。金属製の馬にまたがるその姿はジャンヌ・ダルクを彷彿とさせるが、乙女ジャンヌではない。彼女はセーヌ川の女神スクァナSequanaだ。彼女が騎馬姿なのはジャンヌをヒントに作られたからにすぎない。彼女はセーヌ川の上を疾駆する。この章は«Solidarité 連帯»、オリンピック旗は連帯の象徴だ。それを届ける女神の任務は大任だ。

この美しいメタリック・ホースはナントの工房で一年かけて作られ、
深夜ひそかにここセーヌで試走をしたらしい。
現在はパリ市庁舎Hôtel de ville前に展示されている。
思ったよりずいぶんと大きい。ちなみに馬の名前はZeusと言う(写真はSortiraparisより)。

 女神スクァナは開会式場のトロカデロ広場に向かって疾駆する。映像は、その間に第1回オリンピック以来の映像・・・勝利の歓喜・敗北の悔しさ、記憶に刻まれた選手たち・・・を目まぐるしく映し出す。

セーヌ川の女神はメタルホースから本物の白馬に乗り換え、
世界中の国旗を従えてゆっくりと会場に進む。
後ろの翼は平和の鳩を象徴している。

 そしてついに、女神スクァナはエッフェル塔の前に到着する。彼女は今やメタリック・ホースではなく、白馬にまたがっている。下馬した後、正式なオリンピック旗を係員に手渡す。ところがここでフランス式のドジをした。気が付いた人は少ないだろうが、旗を上下逆さまのままに揚げてしまったのだ。あとは、風が吹かないで垂れ下がったままでいることを願うばかり(笑)。
 オリンピック旗が掲揚され、オリンピック賛歌が歌われる。章は«Solennité 荘厳»となる。パリ2024大会組織委員会会長トニー・エスタンゲ、国際オリンピック委員会会長トーマス・バッハの挨拶等、型通りのシナリオ・・・最もおもしろくない・・・が続く。
 すると、子供達から聖火を継いだ謎の男がやって来て、ジネディーヌ・ジダンに聖火を手渡す。聖火は巡り巡ってめでたく元に戻ったということだ。思えばこの開会式映像の皮切りに、パリの北にあるスタッド・ド・フランス競技場から聖火を運ぶべくメトロに乗ったジダンは急停止したメトロに閉じ込められて、聖火を子供達に託したのだった。元サッカー界の英雄に今また聖火は戻り、式場でテニスの英雄ラファエル・ナダル(スペイン)に聖火を手渡す。ナダルはセーヌ川で船に乗り込んで、川を遡る。

左から陸上競技のカール・ルイス、テニスのラファエル・ナダル、
体操のナディア・コマネチ、テニスのセリーナ・ウィリアムズ

 その船にはカール・ルイス(アメリカ)、セリーナ・ウィリアムズ(アメリカ)、ナディア・コマネチ(ルーマニア)の3人も乗り合わせて順繰りに聖火を掲げる。ここにも、極めてフランスらしい考え方がよく現れている。かつてミッテラン大統領はパリはフランスのみならず世界のパリでなければならない(こんなようなこと)と宣言し、革命200周年当時の記念建造物の設計者のコンペには世界中から案を募り、それを実行した(例えばルーヴルのガラスのピラミッドやデファンスのGrand Arche、オルセー美術館の内装などは外国人の技師が担当している)。この開会式においても、聖火ランナー以外で、レディーガガ(アメリカ)、セリーヌ・ディオン(カナダ)を歌手として採用している。また、ナダルたちが船で聖火を運んでいる間に、トロカデロの式場で演技をするダンサー、シャヒーム・サンチェスShaheem Sanchezもアメリカ人だ。エッフェル塔の光りのショーをバックに、彼はマルク・セローン Marc Cerrone の«Supernature超自然»の曲に合わせてchansigneを熱演した。chansigneとは、chant(歌)とlangage des signes(手話)との合成語で、演奏される楽曲を手話とダンスで表現する。サンチェス自身、4歳児の時から聴覚障害者と言われている。人の愚かさでこの地球が悪しき方向に向かっていると警鐘を鳴らす歌«Supernature»は英語ヴァージョンで歌われた。

chansigneシャンシーニュを演ずるシャヒーム・サンチェス
サンチェスの背後のエッフェル塔もずっと光のショーを演じていた。

 今回のオリンピック開会式では、NHK担当アナウンサー(二人)のあまりの無能ぶりが目立った。そのために実況そのものの魅力が半減したのではないかと思う。仏語と英語の説明書があったはずなのに、場面ごとにだんまりを決め込んだり、間違ったり多々あった。その典型がこのトロカデロの式場でのアメリカ人ダンサーのシャヒーム・サンチェスの演技時だった。エッフェル塔の光りのショーをバックに、彼はマルク・セローンの«Supernature»の曲に合わせてchansigneを熱演したが、その間二人のアナウンサーは何の説明もせず黙殺していた。曲名と音楽家、ダンサーの名前と新しいダンスchansigneについてはもちろん、このダンスを実演する意義について説明するべきだった。精通していない視聴者にとっては、意味不明の数分間がいたずらに流れただけだった。

 次にchansigneを2例紹介する。開会式が行われたトロカデロ広場でエディット・ピアフの«La foule群衆»をchansigneしている女性
https://www.youtube.com/watch?v=05UNTgcL-q0
HK et les Saltimbanks が歌う«Ce soir, nous irons au bal 今晩、ダンスに行こう»・・・この歌は2015年11月13日の大テロの犠牲者たちへのオマージュ。襲撃された「バタクラン劇場」やカフェ「ル・カリヨン」の写真もある。大勢でchansigneをしている。
https://www.youtube.com/watch?v=8oTh-WTVgCU

 ルーヴル河岸で元銀メダリスト、アメリー・モーレスモ(テニス)が4人のメダリストたちから聖火を受け継いだ(アナウンサーは名前を間違えて紹介していた)。彼女は聖火をルーヴルの中庭まで運び、次々とリレーして、と言っても前の走者も一緒に走り、カルーゼルの凱旋門を通ってチュイルリー庭園に行く。その凱旋門あたりで最後の章「Éternité永遠」に入る。先には車椅子に乗る元金メダリスト(自転車)、100歳のシャルル・コストCharles Costeが待ち受けていた。彼はしっかり聖火をかざし、最終ランナーのテディー・リネールTeddy Riner(柔道)とマリー=ジョゼ・ペレック Marie-José Pérec(元陸上金メダリスト)に火を繋ぐ。彼らはその先にある気球まで行き、聖火を気球下のゴンドラに点火する。するとゆっくりと、気球はパリの夜空に舞い上がった。

カルーゼル凱旋門
左側はルーヴル、右側にチュイルリー庭園がある。
その先にはコンコルド広場(オベリスク)、シャンゼリゼ通り、凱旋門があり、
その先はるかかなたにデファンスのGrand Archeがある。
朝、晴れ渡った日にそれをカルーゼル凱旋門の中にレンズに入れることができる。
点火した直後

気球の上昇とともに「愛の讃歌」のメロディーが流れ出し、歌声が聞こえてくる。映像にはエッフェル塔のステージで力の限り歌うセリーヌ・ディオンCéline Dionの姿が現れ、ついで夜景のパリの街が映し出される。シャンゼリゼ通りからデファンスへと限りなく伸びる光の道、百年以上のあいだ光続けるエッフェル塔、燃え上がる聖火を運ぶ気球。まさに「光の都La Ville-lumière」で開催されるオリンピック開会式の最終章«Éternité永遠»にふさわしい。

真っ直ぐ西に伸びる都市軸の直線がよく見える。ちなみにラ・デファンスLa Défense は、高層ビルの立ち並ぶ新都心、ここで水泳競技が行われたが街の風景が見えなかったのは残念だった。

ついでながら、去年デファンスの街を撮ったので何枚か紹介します。

Grande Arche グランダルシュ: Arche はアーチまたは門のことだ。
イタリア産の真っ白な大理石で化粧が施されている。上階は展覧会場、両側はオフィス。
見学者は門内に見えるエレベーター(縦の柱)で屋上(ヘリポート)に昇ることができる。
エレベーターの箱は床も含めてガラスでできているので、下りの時には肝試しの感あり。
世界中からの公募により、設計はオランダ人ヨハン・オットー・フォン・
スプレッケルセンとエリック・ライツェルに決まった。
ルーヴル宮殿(美術館)の方形の庭の一片の長さ110メートルを考慮して
一片110メートルの門を作った。こうして、設計者はルーヴルとの繋がりを示した。
デファンスの街には車は走っていない。車両はすべて(郊外電車、
メトロ、トラム、バスも)地階を通る。
この小ぎれいさはいかにもブルジョワ的な世界だ。
あるいは資本主義的世界とも言える。世界中の有名会社がここに集まっている。
パリの町の方を向くと凱旋門が見える。あの門の中に、もし望遠鏡があれば、
オベリスク、カルーゼルの凱旋門、ガラスのピラミッドまで見えるだろう。
手前の首なし巨人はオブジェ


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