パリ・オリンピック開会式(2)

ジャコバン革命から一気に第三共和制へ

 前回、パリ五輪の開会式直後、その式中の場面で国立図書館のシーンを取り上げた。それから一週間、開会式については様々な感想・意見がネット上で飛び交ったし、今もなお飛び交っている。それだけ、このオリンピック開会式は強烈なインパクトを世界に与えたということだ。それまでのオリンピック開会式は、開催国の歴史と文化、その豊潤さと魅力を歌や踊りで凡庸に(更に言えば抽象的に)紹介していただけだった。当然、世界中の人たちもこの度の開会式も程度の差はあれそんなものだろうと思っていたはずだ。違いは舞台が屋内ではなく外であり、選手団がセーヌ川を船で登場する、要するに世界遺産でもあるパリの景色をたっぷりと見せて、今までの開会式との違いを誇示するだけだろうと想像していた。
 ところがその想像は、«Liberté自由»という章に入りドラクロワの絵を思わせる市街戦の風景が光で映し出されて裏切られた。映像に現れたのは革命時に牢獄と使用されていた美しい中世の建物コンシエルジュリーであり、その窓には己れの首を持つ貴婦人の像だった。女性をマリー=アントワネットと思うのは容易い。その生首は
Ah! Ça ira, ça ira, ça ira / Les aristocrates à la lanterne ! Ah! Ça ira, ça ira, ça ira / Les aristocrates on les pendra !
と叫ぶ。とそれを受けるかのように、Gojiraというメタルロック・バンドは激しいビートにのせてAh ! ça iraを歌った。

ドラクロワの「民衆を率いる自由の女神」を彷彿とさせる。
後ろはコンシエルジュリーだ。
血煙が上がったようなコンシエルジュリーの前を
パリの紋章(標語「たゆたえども沈まずFluctuat nec mergitur」)となっている帆船が通る。
船首にいるオペラ歌手がビゼーの歌劇「カルメン」中の«ハバネラ»を歌う。

「おお、うまく行くだろう、うまく行くだろう、うまく行くだろう/貴族どもはぶらぶら提灯に
おお、うまく行くだろう、うまく行くだろう、うまく行くだろう/貴族どもは吊るし首」
 耳を聾するバンドの音に合わせるかのように、革命時代の象徴である建物の窓から真っ赤なテープが血のように吹き出してそれが真っ赤な煙・・・まさに血煙があがった。
 どうやら、パリはこの祝祭の時に、おめでたい風景を見せるだけではないらしい。大革命の核心(王と王妃の処刑)をあえてセンセーショナルに見せつけたのだ。
 コンシエルジュリーの前をパリの紋章となっている帆船(標語「たゆたえども沈まずFluctuat nec mergitur」)がオペラ歌手を乗せて現れる。彼女は高らかにビゼー作曲の『カルメン』中のアリア「ハバネラ」を歌いながらコンシエルジュリーの前を通り過ぎる。と、すぐに火はおさまった。彼女の歌がまるで革命の炎を鎮めたかのようだった。1789年から、厳密に言えばマリー=アントワネット(とルイXVI世)の処刑とジャコバン革命から、パリという船は前代未聞の危険な航海に出た。船は、共和制→帝政→王政→王政→共和制→帝政、二度の革命とパリ・コミューンという紆余曲折を経て、『カルメン』が発表された(1874年)第三共和制にたどり着いた。パリは「揺れに揺れ」て、いつ難破するかわからない激動の時代を生き抜いてきたことを「ハバネラ」と「船」は表現しているのだろう。
 マリーナ・ヴィオッティーMarina Viottiは船の上で高らかに歌う。
L’amour est un oiseau rebelle
Que nul peut apprivoiser,
S’il lui convient de refuser.
Rien n’y fait, menace ou prière,
L’un parle bien, l’autre se tait ;
Et n’a rien dit, mais il me plaît
L’amour, l’amour, l’amour, l’amour
恋は気まぐれな鳥
誰にも飼い慣らせやしないわ
呼んだって無駄なこと
お断りの気分のときには
何をしてもだめ、脅してもすかしても
おしゃべりな人と無口なら
好きなのは無口な人
彼は何も言わない、でも好き
恋よ、恋よ
恋よ、恋よ  (拙訳)

 こうして、場面は国立図書館へと移り、前回に書いたように、図書館から本を選んで視聴者にタイトルをちらりと見せる。そこに現れたのは9人の作家だった。
ヴェルレーヌ(1844-96)、アニー・エルノー(1940-)、ミュッセ(1810-57)、モーパッサン(1850-93)、レイラ・スリマニ(1981-)、ラディゲ(1903-23)、ラクロ(1741-1803)、モリエール(1622-73)、マリヴォー(1688-1763)。
 前にも書いたように、意表を突かれるのは作品の選択だけではない。作家たちの選択も同様だ。ご存知のようにフランスの19世紀は偉大な作家が輩出し「小説の世紀」と呼ばれた。スタンダール、バルザック、デュマ、ユゴー、フロベールの名前がすぐに浮かぶ。が、国立図書館の場面で紹介された作家たちに、上に挙げた巨匠たちの名前はなかった。演出家(トマ・ジョリー)が奇をてらったとも言えるかもしれないが、あえて選ばなかったとも考えられるだろう。
 注視すると、上に挙げた大作家たちは大革命から第三共和制の成立(1870年、1875年に憲法)までに傑作を発表した作家たちだった。これは偶然か。もう一度挙げている作家を確認すると、モリエール(17世紀)、マリヴォー(18世紀)、ラクロ(18世紀)、ミュッセ(19世紀)、ヴェルレーヌ(19世紀)、モーパッサン(19世紀)、ラディゲ(20世紀)、アニー・エルノー(20世紀)、レイラ・スリマニ(20世紀)で、革命期から第三共和制成立までの大作家たちは見事に抜けている(ヴェルレーヌがランボーと同棲を始めたのが1871年、モーパッサンの作家デビューは1880年)。
 大作家と言えばエミール・ゾラがいるが【ルーゴン=マッカール叢書】20巻の第1『ルーゴン家の繁栄』は1870年発表。彼の膨大な小説の中には当然様々な恋愛が描かれているが選ばれていない。演出家の選択の中には、大家嫌いがあるかというとそうでもない。モリエールが入っているし、なによりもノーベル賞作家のアニー・エルノーがいるからだ(パンテオン入りした国民的な規模の大家嫌いはあるかもしれないが : ユゴー、デュマ、ゾラ)。
 もしかすると、演出家(トマ・ジョリー)の趣味に立ち入っても仕方のないことかもしれない。ここで大切なことは、大革命以前三人、19世紀ロマン主義一人、第三共和制下三人、現政権下二人だったということだ。
 この異質な冒険の始まりはコンシエルジュリーの窓に立つマリー=アントワネットらしき女性の持つ生首の場面からだ。国王ルイXVI世から王妃の処刑に至る革命は過激なジャコバン派が権力を握るに至る時期にあたり(ジャコビニスム)、テルミドールの反動まで一般民衆(サン・キュロット)が主人公に躍り出た時だった。Ah ! Ça ira は彼らの革命歌だ。
 メトロのバスティーユ駅1・2番ホームの壁には国王一家が、民衆に「パン屋が来たぞ」とヴェルサイユからパリに連れ戻される絵が描かれている。その頃の民衆は国王一家を「パン屋の親父と女房と子供たち」と呼んではいても、王政廃止ましてや国王の処刑など頭の片隅にもなかった。王家にとっては屈辱的な絵であっても(ブルボン家の人たちは不愉快だろうが)、今や駅のホームに馴染んでいる(というより、気にもされない)。

メトロのバスティーユ駅に描かれた絵。
ヴェルサイユからパン屋(ルイXVI世)を連れてきたという風刺画。

 思うに、ジャコバン派の権力奪取に至るいわゆる恐怖政治時代というのは、フランス史の中で全面的な指示を受けがたい時だったのではないだろうか。その証拠に、記念像好きのパリっ子たちでもロベスピエールとサン=ジュストの像を街で見かけることはない(見事なダントン像はあるが)。
 コメントを見ると、残酷な革命を美化していると非難している人がいる。もしもパリ(フランス)がその意図を持っていたとしたら、普段の町の中にその証拠が多数あるはずだが、皆無かどうかはわからないが見かけることはない。パリの街にはジャコビニスムよりも、その前後の時代の印があふれている。例えば、革命広場を改めたコンコルド広場、凱旋門、パンテオンなどがそれだ。また、ワシントンの騎馬像(イエナ広場)とジェファーソン像(ソルフェリーノ橋のたもと)などアメリカ独立を象徴する像もある。
 とはいえ、パリの17区のはずれに150メートルほどの道路「サン・ジュスト通り」があり、パリ郊外の町モントルイユ(パリ20区の外にある隣町)に「ロベスピエール通り」がある。畢竟そこにあるメトロの駅名は「ロベスピエール」となる。恐怖政治の代名詞であり、清廉の士の典型でもあった二人は、歴史の重大な転換点をリードしたにも関わらずこぢんまりとその名を残しているだけだ。
 演出家トマ・ジョリーは、コンシエルジュリーとギロチンを切り離すことができなかったのだろう。が、なぜ王妃だったのか。国王では不可能だったのか。コンシエルジュリーを見学した方はお分かりだと思うが、牢獄とされていた内部を見ると、やはり王妃の部屋が印象に残る(王はここに投獄されていなかった)。それにしても随分と派手な演出をしたものだ(社会党のイダルゴパリ市長もOKサインを出したに違いない。もしかすると嬉々として?)。当然、世界中の視聴者が驚愕し、非難轟々となることを予想できたはずだ。しかし彼は「これがフランスだ。フランスの拭いがたい真実だ」と発信するべきだと思ったのだろう(註)。
 学校教育の中で、近代国家成立の重要なターニングポイントが血塗られたことを学んできたフランス人(もしくは周辺国の人たち)の感じ方と日本のような教育、オブラートに包んだ歴史教育を受けた人たちとは一線を画しているのかもしれない(例えば残酷な死刑である切腹は美化して教えられる)。
 そう、なんでも戯画化するのが好きなフランス人のこと、これくらいの仕掛けでは騒がないに違いない。
(註) デイリー新潮編集部の富樫鉄火氏がこの場面について以下のように書いておられる : SNSでは、「露骨」「生々しすぎる」との声があったらしいが、この“自らの生首をもつマリー・アントワネット”は、1966年録音のバーンスタイン指揮、ニューヨークフィルのLP、ハイドンの交響曲第85番《王妃》のジャケットに、すでに登場している。欧米では、マリー・アントワネットといえば“断頭台に消えた王妃”なのだ。【アヤ・ナカムラと共演した「世界最高の軍楽隊」から、セリーヌ・ディオンの傍らで雨に濡れた「超高級ピアノ」まで…“難解”なパリ五輪「開会式」を音楽ライターが徹底解説】より、以下のURLです。
https://news.yahoo.co.jp/articles/67cd1fed5a553a431cf133e62b7e37bbbaf9e72e

 セーヌは流れる。次の場面は«L'Égalité平等»、ルーヴル美術館と学士院(アカデミー)を結ぶ「芸術橋」が舞台だ。

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