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天は何物を与えるねん

「天は二物を与えず」ということわざを、私は一切信用していない。なんなら嫌いな言葉でもある。「嘘つけコラァ(巻き舌)」とすら思っている。

なぜなら、世の中には、何物も持っている人、が多数存在するからである。そりゃあ、ちゃんとした意味を紐解いたら、最終的には「二物を与えず」で合っているのかもしれないが、それは置いといて、シンプルに、あれも、これもできるんかよ、しかも、ちょっとできる、ちょっと上手い、じゃなくて、めっちゃできる、めっちゃ上手いんかよ、という人が存在する。

例えば、優れたシンガーソングライターで、さらに絵も描ける人。賞を取るような売れっ子作家で、絵もかけて歌も歌える人、等。主となる職業以外で、商業的に成功しているか、は関係ない。描いた絵を自身の本の装丁に使用したり、ブックレットやジャケットに載せている程度で、それ自身を売っているわけではなかったりもするが、にしても「上手すぎやろ」みたいな人もいる。
またそれ以外にも、英語が出来る、ファッションデザイナーとしても活躍できる、とにかくめちゃくちゃ勉強が出来る、はたまたシンプルに、ルックスがすこぶる良い(これも才能の一つだと思う)等、色々な「二物目以降」が備わっている人が多く存在する。それを知った時、たいてい私はみっともなく嫉妬してしまう。「こんな事も出来るんかよこの人!!!ずるい!!」となってしまうのである。

私のように一物も備わっていない人、いや、もしかしたら実は備わってはいるんだけれども、それを自覚しておらず、発揮が一切出来ていない人、世間には多いのではないかと思うのだが、そんな凡人たちはどうしたらええんや、となってしまう。

自己診断等をする時や、履歴書を書く時、面接をする時などに、特技は?と聞かれるととても困ってしまう。この「得意とする事」って、どこまでを得意と答えていいんだろうと考えてしまうのだ。だって、ちょっとばかり得意かもな?と思っても、上には上が当たり前にいる。
例えば、一応私の場合、特技を聞かれた時に答えるのは「英語の発音」と「歌」であるが、これも「これらが苦手な人と比べたら多少はマシ」程度である。英語にいたっては別に喋れるわけでも全くない。文法もリスニングも苦手だ。だが、昔から英文を音読したり英語の歌を歌う事が好きで、唯一、発音だけはネイティブの先生にも多少褒められてきた、程度。当たり前だがネイティブとは比べものにならない。歌だって、「カラオケで友達にちょっと褒めてもらえる程度」である。得意と答えていい自信も本当はない。

何か秀でたものを持っている人、堂々とこれが得意です、と言えるものを持っている人に昔からずっと憧れを抱き続けている。こんな風に出来たらな、こんな風に生まれていたらな、ないものねだりばかりを今もずっとし続けている。

ちょっとスピリチュアルな話になるが、かなり昔に「色々もろもろ視える人」に視てもらった事があった。こう書くとなんだかうさんくさいが、その方は私より少し上くらいの、とても明るく気さくな感じの良いお姉さんで、でも「あ、この人本物だな」と思わせる瞬間がいくつもあるすごい人だった。
その時、彼女は私の手を握り、第一声、「他の人はいーなー。あんな風に言えて、あんな服が着れたり、あんな事が出来たり、みんなはいいな〜、ってずーっと言ってるよ笑」と言われた。多分これはいわゆるインナーチャイルド的な事を言ってるのだと思うが、かなりハッとした。
そう、私は昔から「皆はいいな〜」精神で生きているのだ。いつ、どの年代でも、自分に対して満遍なく劣等感が拭えず、「あの子はいいなー。この子もいいなー。ずるいなー。みんな私には持ってないもの、もってるなーブーブー!」みたいな精神で生きていた。それを大人になってからこういった形で指摘され、ドキっとしたのを覚えている。

正直、今も「何物もいらんから、一物だけでも与えてよ」という卑しい気持ちで天に祈りながら生き続けている。
でも本当はそうゆう事でもないんだろうな、とも思っている。きっと、私にも何か備わってはいる。それが何か分からない、発揮の仕方が分からない。
「クリリンのことかー!」的な大きな出来事があって初めて超サイヤ人になれるように、何か大きな事が起こってはじめて、これか!と気づくのか、それともじわじわと「私が出来る事ってこれなのか?」と気づくのか、分からない。私ももうアラフォーである。勉強や努力を始めるなら、一日でも早い方が良い。私の才能、やっぱり何か分からんから、早く教えてくれよ、天。


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