見出し画像

ピッケルとアイゼン 2

アイゼンの使い始めは厳冬の低山ハイクからで、それが必須なアイテムだから。
始め使いは所謂、軽アイゼンから始まった。

これが無いと低山と言えど北斜面で一日中日陰でガチにと凍る傾斜は登れない。

いや、登れなくはないが、ひどく惨めなポーズでそこら辺に残る草きれに必死にしがみ付くようなムーブをして、ひたすらに滑り落ちないようにと願掛けながら慎重に登らなければならない。

コースの箇所によっては、非常に危険極まりない大怪我をする恐れが或る。落ちた先が谷底の場合などと想像を逞しくしなければならない。

これは単独山行では決して行ってはいけない事。
一旦大きく滑って足をやられたものなら下山はおぼつかず、要らぬご迷惑ご厄介を掛けてしまう登山者になってしまうかもしれない。だがそれもすぐ近くに幸いもそういう人がいればのお話。
こんな事を思い乍ら自己責任の元、山の神へと毎度お邪魔をしていた。

そうしてるうち軽アイゼンを2号機くらいまで使い回すころに本格的で高価なアイゼンを手に入れることになる。

この頃は単独での山行動へ何処か行き詰まりを感じていた頃で、得意先の方がきっかけで、所属される或る倶楽部に参加をさせていただき、ピッケルのお古を頂いたり、自分のお気に入りアイゼンを買ったり御指南を頂いたりして、カラビナ、ハーケン、ザイル、と道具を揃えつつ季節を問わず八ヶ岳、谷川岳、上信越の山々、南アや北ア、ゲレンデ練習では三つ峠、湯河原幕山、奥秩父小川山、城ヶ崎へ行く事が週末の日課となっていった。

こうした経緯でいままで単独の山から観えてきた景観は随分と変わっていった。
登攀斜度が変わる事で、夏には蝉となるように壁の人となり、冬春にはカモシカや熊のような山人生活をしていた。

厳冬での八ヶ岳ではキンキンの金具部分に素手で触ろうもんならば大変な事になり、肌も凍る感覚や、一晩中眠れないテントシェラフの中、真暗闇の朝から午後早仕舞いの健康的な山生活がたびたびと続いた。
この頃は氷瀑登だが積雪量が多い年だったので登攀のスケール感には満足はあまり感じなかった。

厳冬の富士山では滑落練習に行くも五号目の前泊テントの真夜中に滑落者の救助へ向かう人達の声の中で起こされても、不思議と何も怖さを感じていなかった。

厳冬季の富士は超一級品の山岳で、翌朝八号から七号の傾斜で訓練をするのだが、登攀の際に三角円錐を巻く偏西風に乗った強風が台風のように鼓動の様なタイミングで襲い掛かり、雪片と富士の軽石を軽々石礫にと変え、容赦なく我らに打ちつけてくる。それはまるで山全体が深呼吸をするかような感触だった。

山において一人の絶対的無力を感じる瞬間でした。

ゲレンデ練習の三つ峠では岩と雪ミックスのザイルワークを学んだ。夏も春もここはいつも気持ちいい登攀の遊び場だった。  落下をしなければ。

城ヶ崎では砂岩特有の紙やすりのような壁が定点確保する手や腕が痛くて堪らんかった。

幕山での岩質はいつでも心地のよい登攀ができた。※ただしムーブが簡単な所だけ。 此処でも結構落ちまくった。

一番は奥秩父小川山で花崗岩岩肌は指先のかかり具合もよくビシっと決まってくれる景観高度差とコースの傾斜が大変心地良い練習場として、とてもよい遊び場だった。進歩の遅いヘタな自分だけど。

こんな山生活を仕事合間の週末毎に谷川岳一ノ倉沢の各コース、幽の沢夏、秋、春
八ヶ岳厳冬季バリエーションルートの壁と稜線
南アル北岳パットレス夏、北アル北穂幕岩登攀、剱岳春バリエーションルート、夏ルートと
回数経験を積んでいった。

所属させていただいていた倶楽部の会合は毎水曜日に新橋の決まった今はなき小料理屋さんで、毎回山行の打ち合わせをしていた。それぞれが業界の違う方々のお仲間に加えさせていただいた事は私自身の人間成長に大いなる手助けして頂いた事で、感謝をしても足りない。山の厳しさ、仲間の優しさに囲まれる喜びは何物にも替え難いものだ。

冬が近づくと山に真摯に向かっていた事を思い出す。
此方の倶楽部は参加する方々の企業規模と仕事のコンセンサスにもよるが、夏ヨーロッパ遠征にも行くほどのチームだった。
私が行くのは自身の仕事で考えれば有り得ない状況に置かれてあった。仕事を変える事も考えた。
おそらくどんな実力者でも現実世界との壁の方が立ちはだかる高さは、向かう山壁より途轍もなく大きく、皆さんが大いに苦しむ事だろうと素直に思う。

覚悟の壁は果てしなくも遠いものだと思い乍ら、夏の小川山の長ルートの傾斜で、頭から真っ逆さまに落ちた時に心奥底から恐れが襲い掛かかってきて、
ここから垂直世界の壁から遠のいていった。

だがそれも良しと思える自分です。

いいなと思ったら応援しよう!