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我儘茶事
私の茶のお話をしよう。
茶事はいつかは、などと思っていた。
きっかけは娘の学園祭で茶室に客として振る舞われたのが良い思い出で、いつかの機会にと思って心の奥底に何時も置かれていた。
学園茶室は校舎に設を得て現れる場であろうけれど
まあ、その生真面目な彼女達のその立ち振る舞いの中に、ふっと、緊張が見えるのだが身内の訪れに緩みが出るのであろう、そのドタバタ感が何処か愛らしいのであって、この頃特有の子達の、あの時代のよき特権みたいなものだと思う。
茶事への始まりは地方に遊んだ時に購入したての土産茶碗を茶事盌代わりに、茶筅は百貨店で仕入れ我流茶をなすがままにしていた。
実家へ帰省で私が何かで話題にしていたのだろう、その後兄から志野盌を何故か貰っていて、当時この二碗が主に始めた時期の茶事遊び道具としていた。
初めてのーーはとてもハードルは高い のであんなものか?こんな感じかと、はちゃめちゃだった。
(それは今も変わっていない茶事の日常)
茶遊びと言ったが「遊」にこそ「裕の茶」の真髄が或るものと思っている。
この遊が無いと何事も上手くは回らない。
設を行う時々に宙がある様に描き
静寂の中に立てる刻に真の心が立ち上がる
の気持で茶事の一連を行う。
その一服を頂戴する。
この至福感が何事にも代え難い瞬間だ。
そう思うからこそ、平穏である間中に難苦を伴う事象への思いを自ら内に置配する事の出来る感性が大切事で或ると思う。
悲しみを悲しみとして、喜びを喜びとして、苦難を苦難として生くる覚悟を受け持つが故に
いまこの刻の事物を愉しむの気持を込め茶を立てる。
そうして今は休日茶事として遊の悦にいっているのです。
明日も茶は訪れる。
いつまでも、何時迄も続けて居られる悦びを
感じていたい。
と思う。