この世で出逢ったことのないあの子との再会#01~群山に行くことにした理由~
昔から、もちろん常にという訳ではありませんが、誰かに守られていると感じることがありました。特に初めての国に行く前や行った先々で、大きくてふわふわと温かい、でも、とてつもなく力強い何かに包まれることがあるのです。
これは、私が生まれる前に生を受け、しかし、これまた私が生まれる前に亡くなったある男の子(と呼んでいいのかは少々疑問ではありますが)との再会のお話です。
おそらく数回に分けてお伝えすることになるかと思いますので、前もってご了承いただけますと幸いです。連載回数は決めていませんが、とりあえずは3回程度を予定しております。
1.投げやりになっていた人生はさておき、群山へ行くことにした
10年とまでは言いません。ただ、8~9年ほど前にはなるかと思います。
当時の私はまさに迷える仔羊でした。
他に気の利いた例えがあれば良いのですが、思い浮かばないところをみると、私にはそれほどの語彙力はないようです。ただ、誰にでも分かりやすい表現だとは思うので、これはこれで悪くはないのかもしれません。
とにかく私は、人生というこの意味不明なものに迷い込み、道を見失い、完全に不貞腐れていたのです。
こんな人生、糞食らえ。
そんなことばかり思っていました。仔羊たちもびっくりです。
しかし傍から見ると、そこまで悪くはない生活だったと思います。韓国に留学し、現地で就職したいと願うも就職先が見つからず日本へ帰国した友人が何人もいました。外国人が本国の人間を押しのけて就職し、VISAを貰うのは、そんなに簡単な所業ではなかったのです。
私はというと、そんな中で、運良くソウルで就職することができました。出来立てほやほやの小さな組織ではありましたが、一応学生の頃から夢見ていた国際機関です。上司からは多くのことを学び、同僚には恵まれ、経済的にも比較的余裕のある生活を送っていました。忙しくはありました。しかしそれはあくまでも一時的なものであって、年中休みなく追われているような仕事ではありませんでした。
そんな恵まれた生活をしてなぜ不貞腐れる必要があるのだと、お叱りの声を受けそうで恐縮してしまいますが、ここでその理由を説明すると、本来の趣旨からかけ離れてしまう可能性が高いため、控えるのが賢明だという判断に至りました。ご了承くださいませ。
ーー閑話休題。
当時の私は、そんな生活、さらには、そんな生き方しかできない自分自身から逃げ出したいと思っていました。
だから、旅行に行くことにしたのです。
折角なので、可愛らしく「プチ現実逃避旅行」とでも名付けておきましょう。まあ、名付けたところで、この言葉が後で登場するのか怪しいところではあります。
結局は連休を利用した小旅行です。
行先は韓国全羅北道にある群山(군산)という街で、日数も確か2泊3日だったと思います。どこにでもある、珍しさの欠片もない20代社会人の旅行です。
2.行くことにしたのは独りじゃなかったから
ただ、独りで行くような気力は持ち合わせていません。
逃げ出したいとは思っていても、人生とはもう自分のコントロールが効くような範疇にはないのだと諦めて久しい頃でした。自分が置かれた状況から逃げ出せずにそのまま腐り切った心で毎日を送ったところで、正直どうでもよかったのです。
そんな私を連れ出してくれたは、同僚の韓国人のお姉さん(オンニ)でした。ここでは名前をへジン(仮)とでもしておきましょう。
へジンオンニがいなければ旅行に行くこともなく、また、行き先に群山を選ぶこともなかったでしょう。
3.行き先を群山にした理由
韓国でいつか必ず行きたいと思っていた場所がありました。
それが群山です。
理由は至極単純で、今年で95歳の祖母が群山出身だったからです。
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ーー時は戦前。
祖母の父が韓国に移住し、群山という街で造船会社を立ち上げ、結婚し、祖母はその地で生まれました。勉強嫌いで、元気いっぱい。日が暮れるまで遊び回っているような子で、当時の「大和撫子」としては決して褒められるような女の子ではなかったそうです。
祖母は14歳で母親を亡くし、その後も父親と兄弟を次々と亡くし、20歳で日本に引き揚げた時には独りきりになっていました。そのため日本では親戚の家で肩身の狭い思いをしながら生活していたそうです。また、外地引揚者というだけで差別を受けた時代です。昔の話は一切しなくなりました。誰に知られることもなく、祖母の思い出が封印された瞬間でもあります。
家族のいない自分が1人でいては色々と迷惑が掛かると思い、祖母は勧められるがままに、好きではない人と結婚しました。しかし、結婚後も苦労の連続でした。女の幸せは結婚だとは、全く以て都合のいい言葉でしかなかったのです。
それでも祖母は3人の子どもに恵まれました。そして、その末っ子の娘が私という訳です。
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祖母に初めて「韓国に行く」と伝えたとき、私の期待とは裏腹にそれほど喜んではもらえませんでした。祖母は俯いて「分かっとっても、つらい道を選ぶとね」といい、静かに涙を流したのです。
私は祖母が韓国で生まれ育ったということを知っていました。だからこそ喜んでもらえるものだと信じて疑わず、なぜ涙を流しているのか理解できませんでした。
それどころか、なぜ反対するのだろうと憤りを感じたほどです。
実は韓国に行くと決めてからというもの、「寄りにもよってなんであんな国に行くのか」という言葉を何度も言われてきました。所謂、嫌韓というやつなのでしょう。そう言うのは決まって親しくない人たちでしたし、気にしないようにはしていましたが、それでもそのような言葉に飽き飽きしていた私は、祖母までもが否定的な言葉を言うのかと悲しく思ったのです。
しかし、祖母は韓国が嫌いなわけではないと知っていたので、きっと孫が苦労するのを心配してのことなのだろうと色々な考えを巡らせては、自分なりに納得のいくポイントを探したのものです。
ですが、今思うと、私はただ単に祖母の気持ちが分からない親不孝者ならぬ、祖母不幸者だったのだと思います。
ーーへジンオンニとは、そんなことも話す間柄でした。
そして、ある日オンニがこう言いました。
”우리 군산에 가자. 예전부터 우리 같이 여행 가자고 했었잖아.”
「群山に行こうよ。前からさ、一緒に旅行しようって話してたじゃん」
そんなオンニは、高校生の時に母親を亡くしました。
「あの時はとにかく周りの大人達が私のことを可哀想に思ってさ、お金だけはあったんだよね。みんなが次から次にくれたのよ」と、なんてことない風に話していたのを覚えています。
「それって逆に悲しくない?」
そう言ったかどうかは覚えていませんが、少なくとも、私はそう感じたのです。
なぜこんな話をするかというと、その亡くなったオンニの母親が学生時代を群山で過ごしていたからです。
だから、こう言われました。
”너 때문에만 가는 게 아냐. 나도 언젠가 한번 가 보고 싶었어. 근데 결국 못 가 봤으니 이제야 좋은 기회라고 치고 같이 가자.”
「あなたのためだけに行くんじゃないからね。私もいつか一度は行ってみたいと思ってたのよ。でも、結局行けず仕舞いだったから、ちょうどいいじゃない。この機会に一緒に行きましょうよ」
うん、そうね。そうしよう。
私たちは、群山に行く運命にあるのです。
そう表現しても、決して悪くはないのだと思いました。
こうして、私たちは群山まで2泊3日の旅行に出たのです。
(つづく)