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明日はやって来ない
明日というものは永遠にやって来ることはないのだと知ったのは、10歳くらいの頃だったと思います。
その頃の「明日」という響きには、希望を含んだ輝かしい期待感が確かにありました。
「明日は明日の風が吹く」という言葉を知ったのも、同じような頃だったと思います。今日は楽しくない、つまらない、平凡な一日だったとしても、明日はきっと、少なくとも今日よりは良い日になるのだと、悲観的な思考を手っ取り早く変えるには、ある意味で使い勝手のいい言葉だったのだと思います。
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「明るい日」と書く一日が、この地味で憂欝だった今日よりも悪いはずがないーー。
でも、そんなことはないのです。
期待を抱きながら眠りに付き、数時間後に新しい日を迎えても、朝が苦手な私の気分は決して良くはなく、いつものように黒に近い紺色の制服を着て学校に向かっても、楽しい日もあればそうでない日もあるわけで、つまるところ、明日は必ずしも明るい日というわけではないことに、少しずつ、気づいてくるのです。
それは、リビングで何となく時計を見ていた時でした。
針が12を回ると、明日になる。
でも、明日になった瞬間に、その明日は、今日になるんだよなあ。
あ、そういうことか!
そう、明日なんてものは永遠に明日のままで、一生来やしないのです。
永遠に来ない明日を追いかけていたから、
おかしなことになっていたんだな・・・。
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明日に期待する心でつまらない毎日を送っても、やはり結局はつまらない毎日しかやってこないのです。
そう考えると「今日が楽しければいい」という一見、自己中心的で無計画な生き方も、実は悪くないのではないかと思えてきたのです。
結局、人というものは今日しか生きられないのだから、
今日を楽しく生きるのは大切じゃないか。
どうせ明日もまた、今日になるのです。だから、その今日もまた、過ぎ去った今日と同じように、楽しく過ごせばいいのです。「それは、大人が言う計画性のない、将来を蔑ろにした生き方でもないのかもしれないなあ」なんて、真剣に思ったりもしました。
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ただ、それに気づいたからと言って、毎日が幸せに過ごせるようになったわけではありませんでした。どうやら、人は今日しか生きられないのだと知ることと、幸せな毎日を送れるかどうかは、別問題のようです。
それでも明日に対して変に期待することはなくなったので、無理やり自分を慰めたりしなくなったという意味では、生きるのが少しは楽になったかなとは思います。
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ーーこれが、最近ふと、ジョギングをしながら思い出した、昔の話。
ではでは。