Not music but music, so strange but pop
ジェズアルド、圧倒的な断絶。無限に繰り返す転調と譜割りの緩急の激しさ。300年を経てストラヴィンスキーによって再発見されるまで(おそらくは)注目されることのなかった彼の孤高の作品群。ハクスリーは著書、”The Doors of Perception”の中でジェズアルドについて、二小節続けて同じ音階を守ることはない、まるで後期シェーンベルクのようだ、と魅力的な批評を放っている。
ハクスリーは自身の百科全書的体系から、つまりおそらくは極めてシーケンシャルにストラヴィンスキーやシェーンベルクを通じて、それでいて幻視のランダムの中にジェズアルドを見た。ハクスリーが見たその光景は無数の比喩とともにボルヘスを連想させる。幻視の中で手にしたジェズアルドのレコードから放たれる繰り返されることのない旋律。
反復と記憶の曖昧が永遠の入り口だとすれば、ハクスリーが見たこの音楽は果てしない刹那の入り口だったのではないだろうか。再び戻ることのない幻視。ジェズアルドと同時代を生きた哲学者カンパネラはジェズアルドの鞭打ちと彼の後半生を思わせる記述を残している。ジェズアルドにとって、あるいはカンパネルラにとって振り返ることも先に進むことも思いとどまらせるその瞬間の刹那、ハクスリーが幻視の中で触れたのはその思念そのものだったのかもしれないとふと思う。
美しい人よ、貴女がいないと “Beltà, poi che t’assenti” — Gesualdo