Not music but music, so strange but pop
トマス・ヤングのダブルスリット・エクスペリメント。光源からの光は平行な2つのスリットを通り衝立上に干渉縞を生じさせる。光は粒子と波動だ、という訳だ。この光の縞こそがラスタ走査線に繋がるのではないかと妄想する。その妄想はさらにサウダージへと飛翔する。光は波であり粒子である。粒子はランダムでありながら文様を浮かび上がらせる。干渉縞はそこに何も宿るはずのない現象であろうが、その現象の美しさに心が揺さぶられる。揺さぶられた心は記憶に共鳴して望郷する。ヒエログリフ解読を試みたというトマス・ヤングはこうして干渉縞に連綿と続く時間と空間を思わざるを得なかったのではないか。
干渉縞を表現にするといういことで連想するのは走査線を積み重ねて輪郭を映し出すトーマス・バイルレだ。私は彼の世界観はある種のモダンの究極であろうと考えていた。バイルレの直線はロココの反動と職工を経たネオクラシズムの行き着く先であり、光の行き先を灯す一つの完成形ではないかと感じていた。しかしアダム・ハーパーが加速主義に触れ、ハイパーリアリティとVaporwaveをつないだ瞬間、つまり元々そこに在ったが言語化されていなかった世界に新たランガージュが与えられた瞬間、私の中ではバイルレの走査線が一気にスピードを落とし仮想的懐古的世界観を作り始めた。
今、不思議なことにラスタ走査に加えられたグリッジや無数のノイズ、静寂、スクリュー、あらゆるエディットを経て蒸気と光が届けたものにはある種のロココ的な抱擁を感じずにはいられない。直線とノイズの果てにロココが見えるというのはどういうことなのか。あらためてその視点からバイルレの作品に触れるとやはりそこにはロココを感じてしまう。プロトタイプしか作られなかったヴェイパーウェアの世界へのあらたな望郷、しだいにゆっくりとやがて動きを止める時間、走査線の抱擁。ヒエログリフの解読を試みたというトマス・ヤングが見た世界はもしかすると光のサウダージなのかもしれない。ふとそんな妄想を抱いた。
And God said, “Let there be light,” and there was light. Genesis 1:3