土曜の夜、孤独感とオードリーANN
こんばんは。
サウナに行こうと思い、1人車を走らせ、家から30分のスーパー銭湯に向かった。
駐車場が満車でまったく停められず、諦めて家に帰る途中のコンビニの駐車場で今これを書いています。
目的があり、家を出た時には感じなかった孤独感がそこにあった。
物理的には1人というのは変わらないのに、この感覚はなんなんだろう…
銭湯に入りたかったのに、駐車場が「満車」ということで、車を停められなくて、結果的に追い出される(実際は諦めて出たんだけど)ことが、銭湯という輪に入れてもらえず、どこか「仲間はずれ」という体験と重なったのか。
また、なんとなくサウナに入って整うという予定をしていたものが、予定がなくなって、
「こんなことあって暇になっちゃったよー、どっか行かない?」なんて気軽に言える友人、俗に言う親友がいないという自分に気づいたからなんだろうか。
いろんなことを考える。
振り返ると、今も学生時代のころも友達がいないということはなかった。(俺としては笑)
社交性もそれなりにある(自分でいうのもどうかと思うが)方だし、初対面の人とでもそれなりに会話できる。
「人見知り」ではない。
ただ、どこかホントに繋がっている感覚はなかった。
こんなこと言ったらこう思われるんじゃないか
あんなことしたら、嫌われるんじゃないか
これが好きだと言ったら、不思議がられるんじゃないか
と思い、すべてを曝け出すことはなかった。
だから繋がっているようで繋がっていない感覚。そんな感覚が、時々出てくる。
みんなもあるのか、聞いたこともないが。
多かれ少なかれあるんだろう。
"みんな"で"ひとり"ということに向き合っている。そんな感じなのかな。
土曜の夜は特にこんなことを考えることが多いかもしれない。
翌日も休みだから遅くまで起きてていいや!という思いで夜ふかしになり、結果1人の時間が長くなる。
そうするとさまざまな考えを反芻する。
気持ちがネガティブになったり、反省したり…1人で考え込むと良い方向にいかないのは俺の常である。
そんな中、気持ちを前向き(もしくはニュートラル)にしてくれるのが、土曜の夜の"オードリーのオールナイトニッポン"
私自身、2020年前後から聴きはじめたリトルトゥース 。
きっかけは覚えていないけど、気づいたら聴くようになっていた。
若林さんと春日さんの話を、深夜のファミレスで近くの席の話を盗み聞きしてるような感覚で聴いている。
毎週それぞれのフリートークがあり、
先日「15年も話していたら"生き様"が出てくるよ」って若林さんが言っていた。
それを聴いて、その"ざま"が魅力なんだとと強く感じた。
最近は若林さんのエッセイやnoteも読んで、より考えに触れることが嬉しい。
生き様やありのまま感情曝け出す姿が自分にできないから魅力的で惹かれるのかもしれない。
だとしたら、俺も少し曝け出してみてもいいのかな?と思える。ざま見せて、変わらず付き合ってくれる人を"親友"というのかもしれない。
ホントに繋がっていると感じるのかもしれない。
もうすぐ2人の声が聴ける。
「オードリーの若林です、土曜の夜カスミン。ひとつよしなに」と。
雑多な文章で全然まとまりありませんが、最後までお読みいただきありがとうございます。