世界の中に自分がいるのではなく 自分の中に世界がある
世界を基準にし、その中に生きていると考える人が多数である。僕らは生まれた瞬間から何らかの社会に分類される。小学校、中学校、高校、大学、社会人、と死ぬまで社会から抜け出すことはできない。必ず何らかの団体には属することとなる。そうすると僕たちは周りの人間と生きるのが当たり前になる。学校ではクラスという集団に属し、さらに小さくすれば仲のいい友達のグループにも。このように人間と直接的に関わる集団に属する。そこで僕たちは自分を出していく。その出し方は集団によって異なる。クラスでの自分、家族の前での自分、友達の前での自分、会社での自分。空気を読んだり、機嫌を伺ったりなど、その集団という概念特有のやるべきことがある。そこでは家族や友人、会社の上司などからアドバイスをされ、あなたは人生をよりよくするために試行錯誤する。
しかしこれではダメである。
空気を読み集団に溶け込むことに努力していないだろうか。そのようなことに縛られてはいないか。家族や友達からアドバイスという名の自己満足に縛られてはいないか。アドバイスを利用し決断を誰かの責任にしていないだろうか。あなたの人生を他の誰かによって舵を切らせてはいないだろうか。冒頭で僕がいう「世界の中に自分がいる」とはこのようなことを指す。自分を出している人はあまりにも魅力的だ。そのような人は変わり者と多々言われる。その魅力に理解がある人は「天才」と言ったりもする。いつの時代でも天才は変わり者だ。馬鹿にされることもある。頭がおかしいなどと罵声を浴びせられることだってある。しかしこれらの言葉は褒め言葉だ。自分を全面的に出し、それを恐れていない証だ。それを理解してくれる友人や上司、同僚に出会えたらその存在は一生ものになるだろう。必ず理解してくれる人は存在する。自分の周りの世界によって自分が決められてしまうのはおかしい。自分を出し仲良くしてくれる人が本当のあなたにとっていい存在である。
「自分の中に世界がある」
あくまでも基準は自分である。物事を最終的に決定するのは自分だ。それを善と決めるのも悪と決めるのも自分だ。この世界が腐ってると思うのも最高だと思うのも自分。全ては自分が基準である。それでいい。これからするすべての行動には自分が責任を持つ。家族がやめとけということも自分がやりたいならそれをやる。基準は自分だからだ。そのやると決めたことの責任も自分である。だから何をやったっていい。何も躊躇することはない。やりたいことをすべてやっていこう。そしてなりたいものになろう。すべては自分を基準にし、自分がすべての責任を負うことでそれが可能になる。その対価はとてつもなく大きい。
あなたは世界の中で生きるか
自分で世界を造りあげるか
それを決めるのも自分である。