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【LRMを自分で語るストーリー~第1期】”たった1つの出来事”から「起業家」としての人生が始まった。年商240万円の1期を過ごした創業秘話。

今回からLRMの歴史を1期からnoteで振り返りながら、発信していこうと思います。
会社も19年目だし人数も100名に近くなってきて、古株メンバーと最近入社してくれた人たちと色々なメンバーが集まる組織になった。
あまり社内でも創業からの歴史を語ることは多くないので、これを機に社内のメンバーにも読んでもらいたいなと。ぶっちゃけ創業期はメンバーいなかったので僕しか知らない歴史になっているのでw
つらつらと書いていくが、誰かの何かのキッカケになればとても嬉しく思います。


会社が出来るはじまりのはじまり

2006年の夏まで遡りますが、当時僕は勤めていた会社でコンサル業務を行っていました。そこでは僕と部長の2人チームの事業部で活動していたのだが、部長が独立することが決定したのです。

そうなるとチームは僕一人。部長が抜けた後どうすればいいか会社の上層部に相談しに行くと「1人の事業部は難しいね」と言われました。
僕は当時20代の頼りない存在だったから会社としても若造一人に残られても、というのがあったのだろう。そこから会社には2つの提案をされた。

僕はコンサルタントになる前はSEをしていたから、会社に残ってSEとしてシステムの部署に異動するか、退職して独立するかという選択肢だった。

迷いはしたが、そのときの僕は独立してフリーランスでやってこうと考えた。
もちろん理由がある。コンサルティング部門で働いていたが、勤めていた会社はシステム会社であったため、コンサルのビジネスは、別コンサル会社の下請けでやっていたのだ。

だからフリーランスで独立しても営業は元々のコンサル会社がやってくれているので案件は流れてくると思った。
まだ29歳で、仮に失敗したとしても一生懸命頑張ったらどうにかなるだろうし、どこか雇ってくれもするだろうと楽観的に考えていた。

ただ周りに流されるのではなく、一生懸命頑張ることに価値があると自信をもち、挑戦しようと決めたのが29歳最後の夏だった。

仲間との出会い、会社設立

フリーランスでいく決心をしてから僕は自分自身が逃げ出さないようにする狙いもあって周りの人に自分の選択を話していた。

たまたまそんなときに数年前からの友達で年が近い社労士と司法書士にも自分の選択を伝えた。
丁度その時に彼らは2人で会社を作ろうと話していた。
そんな彼らにこんなことを言われた。

「会社を一緒にやらないか」

別に一人でやりたいという思いが強いわけでなく、それこそ流れでの独立なので特に深く考えずに2つ返事でOKした。
話しに乗っかった形だから、初代の社長は僕ではなく別の人でした。
彼らは元々の知見で法務や労務関連の会社を作ろうとしており、会社が攻め(営業とか)か守り(管理系)かでいうと、司法書士と社労士と情報セキュリティコンサルなので完全に守りの会社です。

作った会社の名前は『リーガルリスクマネジメント株式会社』

社労士と司法書士がいるため、法律感が強く表れていた。
僕はそこで取締役を担うことになった。
12月に設立したのだが、僕は3月までシステム会社勤務だったので3月までは週末などを使ってリーガルリスクマネジメントでの事業の準備などを進めていた。

会社を創ったのはもちろん初めてだったからとてもウキウキしていた。
土日のミーティングのみの参加だったが、それだけでも楽しくて本格的に動き始める4月が待ち遠しかった。2007年3月で円満退社をし、4月から完全にリーガルリスクマネジメント株式会社に移った。

しかし、心躍る気持ちでスタートしたものの、初月・4月の売り上げは42万円。42万円のうち僕の売り上げは34万円。

それは僕がほかの人よりも優れていたから、ではない。

僕は転職したリーガルリスクマネジメントだけなのに対し、社労士と司法書士は自分たちの個人の事務所も既に1つ持っていたのだ。

つまり、僕と彼ら2人とでリーガルリスクマネジメントに割けられる時間に差があったのだ。

僕は営業を行っていたから最初の売り上げは一番高かった。
あと、熱量にも差があった。
今でもどれだけ2人に熱量があったのかは不明だ。彼らは既に個人の事務所を持っていて、それを本業としているからリーガルリスクマネジメントに使える時間もなかなか取れない。これらが4月の営業成績の理由だった。

半年も経たずに組織が分裂

それからも営業成績やその理由は変わらず6月になり、組織が分裂した。
彼らとは年も近く20代であったから僕は心許ない発言をしてしまった。

「もっと本気でやってくれよ、営業しろよ」と。

彼らが本業である事務所で頑張っていたこともわかっている。
リーガルリスクマネジメントもないがしろにしていないのもわかっている。でも、リーガルリスクマネジメントにフルコミットで頑張る自分との差を納得することが僕にはできなかった。

彼らは仕事を自分の事務所で受けるか、リーガルリスクマネジメントで受けるか選択できた。

2人にとってはそれでいいかもしれないが、僕には生活がかかっていた。

自分にはここしかなかったから、仕事を受ける場所を選べる彼らを見るとどうしても不満に感じていた。
自分自身の余裕のなさから2人に不満をぶつける結果になってしまった。
分裂して当然だ。

結局、僕たち3人がしていたのは「会社ごっこ」にすぎなかった。
もちろん仕組みはしっかりしていないし、経費もそんなにかけていなかった。個人事務所をもっている2人はそちらでオフィスがあるので。
リーガルリスクマネジメントの最初はレンタルオフィスだった。
 
4月にスタートして実質3ヶ月目の6月に当時の代表が別のことをやってみたいと言い出し、別の会社を新たに作ることが決定した。

そのため最初の代表は抜けることになった。僕ともう1人の2人体制の予定で会社を続けるつもりだった。

けれども、僕は片手間で仕事をしてほしくなかった。
だから残った1人は辞めたいなど言っていないが、彼が持つ事務所をメインでやりなよ、と勧めた。

色々と話し合って彼は彼の本業をメインですることにしてリーガルリスクマネジメントの役員からは離れることになった。

僕は会社を1人でやると決心した。

ちなみにその彼とは今でも良好な友人関係を築いておりLRMの仕事も多くしてもらっています。
7月、3人役員で始めた第1期が終わり、
僕1人が役員となって第2期の8月を迎えた。

今では東京でスタートアップに挑戦する若者が増えたと思う。
彼らは夢を持ち、その夢を叶えるために起業をしている。

だが、僕には何もなかった。

前の会社で1人だけの部署がダメになり、独立を進められ、仲間が出来て起業した。一つ持っていたものがあるとしたら、仕事が楽しくてコンサルの仕事が好きだったことであろう。

小さな夢もなかったけれど、自分一人であればそれなりに食っていける自信があった。
2007年3月に辞めた会社とはどうなったのか。

実は今でも関係が続いている。起業した4月からその会社にコンサルを依頼してもらい、今日まで一緒にお仕事をさせてもらっている。
本当に有難いことだ。

リーガルリスクマネジメントとしての初めての直契約が僕の前の会社です。第1期から契約が続いているのは、前職の会社を含め合計3社。
開業してもう19年。こんなにも長く関係を続けられているのは、当初は何もないながら本気でセキュリティコンサルをしていたし、お客様の会社のためにセキュリティ以外もお役に立とうと色んなコトをしたから信頼をして貰えたのだろう。
 

印刷、ホチキス止め、テープで保護


その3社との契約も最初は慣れないことだらけで大変だった。
契約書、見積書、注文書、請求書、全てを作るところから始まったのだ。
契約書なんてみたこともなかったのに。

僕は前の会社でSEやコンサルの仕事をしていたため、契約書類を作る仕事には関わっていなかった。法務部があったため書類作成を行ってくれる。
営業部もいたから契約書を目にすることもなかった。
だから、まずは契約書を作るところから始まったが、リーガルリスクマネジメントには司法書士と社労士という契約に詳しい人がいた。

僕にとって大きなハードルとなる法律手続き周りを彼らから学べたことは、今ある財産の中でも大きな一つである。

当時はクラウドなんて知らないし全て紙だった。
印刷をして、ホッチキスで止め、針が隠れるようにテープで隠して、割り印して、返信用封筒を入れて送付して、保管してといった作業を全部自分で行っていた。

「契約書の日付って、いつが適切なの?」なんて思いながら進めていたことが懐かしい。
宅急便と宅配便と郵便局の違いだって分かっていなかった。
書類作成以外にも企業で大切なのに知らなかったことがある。

その1つが就業規則だ。

言葉としては会社勤めであったため知っていたが、「何それ、美味しいの?」状態であった。当時、社員はいなかったけれど司法のプロたちと作成し、確認していくプロセスもとても勉強になった。

起業手続きの中でも驚いたのはハンコの多さだ。
リーガルリスクマネジメントを設立した12月、僕はノータッチだったから何も知らなかった。個人でも実印も知らなくて全て同じ1つのハンコで行っていた。法人のハンコは実印と銀行印と角印をハンコヤドットコムで購入した。「実印と代表印が一緒なの?」と思う人がいると思うが当時はそんなこと知らなかった。
「法人設立セット」的なのを選んで「これで大丈夫」と思っていたものだ。

手続きは周りの人に頼りっぱなし
リーガルリスクマネジメントの決算は7月。これには理由がある。

12月に設立し税理士さんの決定をしなければならなくなった。
最初は知り合いの税理士にお願いしようと思い相談したところ「暇な時期なら安くするしいいよ」と言われたのだ。
その彼にお願いしようと思ってメンバーと相談して彼が暇な7月決算になりました(笑)。
ただ、当時の代表が別の税理士さんを探してきて、1年目は代表が探してきた人に担当してもらうこととなった。

ちなみに会社のWebサイトは最初からあるのですが、なんと最初は当時の社長が作ったものだった。ホームページの作成は社長本人がやりたいという気持ちがあったからだ。

テンプレートを購入してそれを元に作ったホームページであった。
Legal-risk-manegement.comというとても長いドメインだったと思う。

6月の段階で前の社長が辞め、8月から僕が社長になることが決まっていたため、いろいろ手続きを行う必要があった。

株式も最初は3人で分けて持っていたけど前の社長は抜けるので、僕が買い取ることになった。
これらの手続きは司法書士にやってもらった。

2期目からは僕が社長であるが、1期目は僕が社長じゃない。
今となってはリーガルリスクマネジメントが前株か後株かさえもハッキリ覚えていない。お客様からは既に略称で「LRMさん」、もしくは「リーガルさん」と言われていた。

この段階で社名を変えなかったのはお客様がいてくれたからだ。
当時の7~8割はコンサルのお客様で、僕のお客様という認識もあり、
社長が辞めるだけで社名を変えると迷惑を掛けると思った。

僕一人になるから会社を辞めてフリーランスで活動することも考えたのだけど、既にリーガルリスクマネジメントという会社と契約してくれているお客様もいるのでそのままにした。

色々と大変なこともあるけど、やっぱり、コンサルという仕事が面白くて楽しい。

最初は誘われて始めた会社だから自分の意思なんてそこまで強くなかったけれど、一応創業者の1人ではある。若い3人で一緒につくってワクワクもした。お客様がついているという責任感もあった。

他の記事で書いたバレーボールの話でも出したが、僕にはあんまり「やめる」という選択肢がない。それはやめたところで変わらないし、やめることは簡単で、次にやるのもしんどい。せっかく会社作ってもらったし、いいことも多かった、というのもある。

バーでのバイト、mixiのコミュニティ、繋がりが仕事へ

僕が独立して以降、たくさんの交流会に参加した。当時は金なし、コネなし、実績なしの三拍子。今もいろんな交流会に参加し様々な人々と会っているが、当時と今では出会う人が異なっていた。

良いか悪いか別として、当時出会うのは起業してすぐの人やあまり儲かっていない人が多かった。

4月に独立して営業をどうしていくかもわからないし、売上とか経費だってわからなかった。
サラリーマンのときは事業数値も持たず与えられた業務を必死にこなした。会社の決算も知らない。決算の締め月も知らなかった。

本当に何も知らない中で仕事をしていたと3人でリーガルリスクマネジメントを始めて実感した。

大変なことはもちろん山ほどあったが、いろいろ知れて良かったなと思う。

あれが一人で開業していたらどうなっていたのだろう?

司法書士と社労士がいたからある色々とわかったことも多かった。
司法書士ってどういう人、社労士ってどういう人、行政書士さんがどう、弁護士さんかどうかとか、公認会計士と税理士の差、違いなども学んだ。

だから、無駄なことは一切なかったと感じている。

彼らと一緒にいたからこそ、法律関係の知識を得られた。
そう考えると、1期目はたくさんの人たちと関わったことで、全く知らなかった世界観をある程度知ることができた。

あと若かったから出来た人脈もある。当時、大阪の北新地のとあるところで、開業したばかり人たちと代わる代わるバーテンのバイトみたいなことをしていた。

僕もそこで週1回バーテンダーをしていた。そこで知り合った人の中にはほんの一握りだけど今も一緒に仕事をしている人もいる。
1期目にバーで出会った起業家のほとんどの会社が残っていない。
会社が存続する難しさを感じる。
 
また、リアル以外ではmixiのコミュニティとかで出会ったりもした。
mixiの「若手起業家ネットワーク」という今から考えると少し怪しい(笑)
コミュニティで出会って人も多くいる。
こちらは今も起業家として活動している人が多く、今でも仲良くしている。

僕は勤めていた時は営業もやったことがなかったからmixiなどのSNSを使って積極的に人と出会っていった。サービスを売るには営業が必要なのだけど、いかんせんSEとテクニカルインストラクター、コンサルタントという業務しかやっていなかったため営業のノウハウがない。

もちろん営業フェーズは知っていたが、自分ではやっていない。
こうして第1期は直接の知り合いから仕事を依頼して貰ったり、別のコンサル会社からの下請けの仕事をこなし何とか生活できるような感じで過ごしていた。1期目の会社の売上は240万。

1期目は人の繋がりはもちろん、会社をゼロから作って動き出す部分、契約書の作り方やハンコの押し方の社会常識が身に付いた期間であったと思う。

「わざわざ誰も教えてくれない当たり前のこと」だが僕は知らなかった。
あと、普通に仕事がある有難さを感じた。

1から仕事を取ってくる大変さ。
辞めた会社に4月からお仕事いただけたときはすごく嬉しかった。
看板がない中で自分たちで提案書を作ることは大変さがありながらも同時に楽しさもあった。

「社長」は別にすごくない

サラリーマン時代は「社長はすごいな~」と思っていたが、実際自分が社長になってみると「社長になるだけなら」誰でもできるものだと分かった。

「社長が偉い」とか、「社長すごいね」とかよくあるけれど、社長という肩書があるだけで他の人とは変わらない。
もちろんすごい能力があって実績もある凄い社長も数多くいるけど。

12月にリーガルリスクマネジメントという会社が設立したことは司法書士からのメールで知らされた。
そのときは「出来たんだ」というざっくりした感想であった。

当時は司法書士と社労士と会社設立に詳しい人がいたからゼロから自分でせずに済んだし、多くのことを学べてありがたかった。

結果的には設立して半年で分裂してしまったけれど、自分の得意なことや本業の延長で行えたのもよかったなと思う。

実はコンサルタントと司法書士などは領域が近い部分があって、違った観点や法についても自分の中にとりいれることが出来たから、その後のコンサル人生に活かすこともできた。

やっぱり自分で契約書を作るなど、小さな会社が全部自分で行うことを経験できたことは貴重であった。
当時は就業規則を作る案件もあったな。社労士がいるため、社員9人の会社にコンサルに行った際、就業規則の営業をやったりもした。

自分で独立してからはコンサルしながら営業をすることも意識し始めていた。
営業ができたのは「自分たちができること」を把握していたからだ。
押し売りは行わなかったが、もしお客様に役立つのであれば、積極的に提案したりもした。

同時に仕事が完全に自分事になった。
元々その意識はあったがさらに強くなったという感じだ。
代表になってから自分がやらないと、という大きな責任はもちろんあった。嫌なことだってあった。

運があったから生き残ってこられた

周りには起業家はいたが、今残っている人はやっぱり少ない。残っているのは10%ほどだろうか。

残った人と残れなかった人、強いて違いを挙げるなら、運と職種、マーケットの選び方だろうか。
僕の場合は圧倒的に運とマーケット要素だろう。

僕がセキュリティの領域に来たのは、打算的考えたからだった。
もし経営コンサルやマーケティングコンサルであったら今も残れているかわからない。絶対必要だけど(当時は)圧倒的マイナー感のある情報セキュリティ領域を選択して正解だったと思う。

第1期を終えた感想としては、意外と仕事が取れたなという感じだった。

金額に対しては特に何も思わなかった。

240万であったけれど、4月から7月の4ヶ月間だけというのがあったし。
何にせよ1期目は本当に初めてばかりのことだったしイキナリの空中分裂と色々とあったな~という感じだけど今から振り返るとそれも良い思い出だったな。 

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