人間に従うよりは、神に従うべきである
このことばは,イエスの弟子たちがイエスの昇天後にエルサレムでイエスのことを伝えまくったことにユダヤ教の祭司たちが困り果てて,「イエスの名を使って教えてはならないと,命じたではないか」と言ったことに対する,弟子ペテロの回答です.
これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、
人間に従うよりは、神に従うべきである。 (使徒行伝 5:29)
このことの受け取り方について,キリスト者とそうではない人との間に違いがあるかもしれません.
人間に従うより、神に従うということに
・人の忠告は聞かないのか.
・他者からの忠告や助言,警鐘は聞かないなんて独善的になるんじゃないか.
・危険な新興宗教の教祖がそのタイプじゃないか.
などの批判がありそうです.
わたしの考えでは,人間の助言よりも神様の助言に従って欲しいのです.
昔は,酒飲むな,煙草は吸うな,映画は見ちゃダメ,喫茶店にもはいっちゃダメとする教派がありました.今でもあるかもしれない.でも人から言われて止めるよりも,聖書を読んで,祈って,その中で神様から示されて酒や煙草から離れる方がよっぽど良いと思っています.
『自発的隷従論』とか『自由からの逃走』など本がありますが,自分の自由を誰かに制限してもらうことを好む人は意外と多いことを最近気づかされています.その人たちは人間的な指導が強い組織が居心地が良いようです.自分で考え判断しなくても良いから,楽なんですね.
上の例でいえば,誰かに酒飲むな,とか煙草吸うなと言われて酒や煙草を止める判断をする方が,楽だと思っているんです.
でも,人のことばや判断,知識なんてコロコロ変わるものだと思っています.例えば,昔は発熱したら解熱剤を必ず服用したものですが,数年前はインフルエンザに解熱剤はダメと言ってました.昨年インフルエンザの治療を受けたら,イナビルを服用したあとは解熱剤もOKと言われました.医学の世界でもこれです.人間の価値基準,判断基準はいつでも変わりうるということは山ほど有るわけです.
じゃぁ,祈って思ったことが正しいかどうか,もしくは独善をどう避けるか.それは,聖書の基準に照らすことです.
酒については古今東西,酒で失敗する人は多いです.ノアの方舟のノアさんもお酒の失敗があります.聖書は「酒に酔ってはいけない」と書かれている箇所もあれば,「胃を守るために少量のぶどう酒を用いなさい」という箇所もあります.だから律法的に一律に判断することは良くないのですね.
煙草は聖書が書かれた時代,イエスラエルをはじめ中東には煙草がありませんでしたから,禁止や許可についての記載はありません.煙草を吸わない理由として「私たちの身体は神の宮であるからキレイに保ちたい」とか「人間の鼻の穴が下を向いているのは,煙を吐き出すには不都合,だから神様はわたしたちを煙草を吸うような身体には創っていない」なんてものを聞きます.まぁ,それぞれひとりびとり理由が異なって良いと思います.
そうそう,「ひとりびとり理由が異なって良い」と書きましたが,いわゆる新興宗教や反社会的宗教カルトではマインドコントロールされたり,リーダーの強い指導の下,みんな同じ理由を語る,というのもありますね.
ということで,今も生きている神様が,ひとりびとりの心に働きかけて,良い人生に導いてくださることを信じています.