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【三国志】俺たちの生存戦略 「黄権」

劉備は待望の根拠地となる蜀を手に入れます。
蜀では、外来人である「東州派」の人々が劉焉・劉璋と協力関係を結んで、地元民の「益州派」の人々を支配する構図となっていました。
ここに劉備が引き連れてきた「荊州派」の人々が加わります。
劉備は、三つの派閥集団に配慮しながら領土経営にあたる必要があったのです。

三国志専門TikToker、張叡さんの作品からの抄訳です。

(一)劉焉と劉璋に仕える

黄権は荆州の有力氏族の出身だ。
彼の家族は、分家のかたちをとって益州に移住した。
外来人は、地元の人々の目には侵略者と映ったから、益州で彼らは敵視を受ける。
だから生活は厳しかった。

益州に新しい州牧の劉焉がやって来ると、彼らに運が向いてくる。
劉焉の母親が黄権の一族から出ていたからだ。
劉焉の母方の家族は益州にほとんどいなかったので、黄権の家族は、数少ない外戚とし
て益州での立場を一気に強める。
黄家は子弟たちを出世させるべく工作を始めた。

黄権は家族の若者の代表として、巴西郡の郡吏に任じられる。
劉焉は益州を安定させるため、益州の氏族を厳しく抑圧し、豪族の王賢や李権など十数人を殺害して威を示した。
その結果、劉焉の外戚である黄家も、益州の地元民と対立した。

劉焉の勢力が強大な間は、黄権の一族も安泰だったが、劉焉が亡くなると状況が一変。
劉璋が後を継ぐと、益州の人々はこれを機会とみて成都を包囲。
外来の支配者である劉璋の排除に動いた。
黄家は滅亡の危機に直面して恐怖に震えていた。
が、危機が迫るなか、運命が味方する。
数十万人の三輔と南陽の難民が、生き延びるために劉璋と組み、益州の豪族たちを撃退したのだった。

この難民たちは益州の東側から来た人々で、「東州派」と呼ばれる。
しかし、東州兵を東州人に任せることには大きなリスクがあった。
だから劉璋は自分の側近を彼らの上につける必要があった。

最初に選ばれたのが、劉焉と共に蜀に入った呉懿の家族だ。
呉懿の妹は劉焉の息子の妻、つまり劉璋の兄嫁だった。
のちに皇后になる運命を予言されたあの女性だ。

黄家も、劉璋の祖母の親族として、劉璋のもとに人材を送るのは望むところだった。
黄権は巴郡の役人をよく務めていたし、黄家の若い世代の代表格だったから、劉璋の主簿に送り込まれる。
小さな官職ではあったが、劉璋の側近となる。

(二)東州派の躍進

荊州の劉表は、劉焉と対立していた。
劉焉が皇帝になろうとしていると暴露したのは劉表だ。
そして、劉璋が後を継いだ時に益州人の反乱を扇動したのも劉表。
彼は荊州の南陽郡出身の将軍・李厳に、益州との辺境を守らせる。
劉表が亡くなり、曹操が侵攻してくると、李厳は曹操に降ることをよしとせず益州に逃げた。

劉璋は喜んで李厳を重用し、首都の県令に任命する。
なぜか?
第一に、李厳は荊州人で、益州人から見ると外来人になり、派閥が異なる。
第二に、李厳は荊州の南陽人で、東州の難民は三輔と南陽から来ていたから、東州兵を管理させるのにちょうど良い。
第三に、劉璋と対峙するなかで李厳の実力はよく知られており、実戦経験も豊富だったから。

劉璋はこうして、兄嫁や祖母の親族、敵将、難民といった外来人を組織して、腹心といえる派閥を形成。
これは広義の東州派といえた。
呉懿と黄権は東州人ではなかったが、東州難民の指揮にあたらせた。
この東州派の力を借りて、劉璋は益州を統治する。

(三)劉備の入蜀

地元人たちはこれに反発し、劉備を招いて劉璋に取って代わらせる陰謀を画策。
劉備が益州を占領した暁には、劉備は益州を支配するために、難民たちか地元人かいずれかと手を組むことになる。
が、劉備には東州派とのつながりがないから、劉備を擁立した功績により益州人を重用するに違いない。
そうすれば益州人は立場を逆転できる。
これが益州人の計画だった。

劉備を招く計画は劉璋の考えとも一致していた。
劉璋は、漢中の張魯が曹操にまもなく投降し、曹操が漢中を手に入れると見ていた。
その時に曹操の侵攻を防ぐには、友軍が必要だと考えたのだ。
それにふさわしいのは誰か?
曹操を防ぐのに、陶謙は劉備を用いている。
袁紹と劉表も、許昌を劉備に奇襲させている。
孫権も、劉備と組んでを曹操を防ぎ、南郡を劉備に与えている。
曹操を防ぐのに、劉備に勝る選択肢はないと劉璋には思えた。

が、黄権は劉璋の側近としてこれに反対。
劉備を招くのは狼を家に招き入れるようなものだ。
劉備が裏切るリスクがある。

しかし、劉璋の考えでは、劉備はこれまで主人を裏切ったことはなかったし、もし背けば曹操と挟み撃ちにされる。
それに、他の主君たちが劉備をうまく扱ってきたのだから、自分も同様にできると考えられた。
これが本音だったが、黄権には言わず、心にしまっておいた。

結局、劉璋は難民出身の法正と孟達を劉備に遣わす。
黄権は再び反対したが、劉璋は黄権の忠義を褒め称えたあと、黄権を外地の県令に任じた。

ここで予期せぬ事態が生じた。
それは韓遂と馬超だった。
曹操は道を借りるとして、彼らの領地を通って漢中に行こうとしたが、韓遂と馬超が反乱を起こす。
その結果、曹操は漢中にやってこず、劉璋は呼び寄せた劉備に投降し、取って代わられる。

(四)劉備を支えた東州派

主君とともに降伏した黄権を、劉備はただちに偏将軍に任命した。
なぜか?
それは彼の派閥が劉備の入蜀を助けたからだった。
李厳は劉璋の護軍だったが、難民とともに劉備に投降。
呉懿も同じように投降した。

彼らは不忠だったのか?そうではない。
士族にとっては、地元で最有力の一族になることが重要で、誰につくかは重要ではなかった。
自分の派閥が勢いを得るかどうかが最大の関心事なのだ。
もし劉璋に忠節を尽くして、劉備に抵抗し続けると、益州人が劉備の支持に回り、東州派の上に立つおそれがあった。
だから、彼らは派閥の存続と繁栄をかけて、劉備にいち早く投降したのだ。

劉備を支持して東州派の上に立つのが、張松をはじめとする益州人の考えだったが、李厳が率先して劉備に投降したことで、難民たちは続々と劉備に従い、劉璋を倒す原動力となる。

こうした経緯で、劉備は劉璋を倒したあと、東州派を重用する。
呉懿の妹を娶り、呉懿には難民軍を指揮する護軍として首都の守備を任せた。
法正は首都の太守とし、李厳は辺境の守備に当たらせた。
そして黄権は偏将軍として南方の異民族に対処させた。

偏将軍とは言っても具体的な任務はない。
が、仕事があるということは、うまくやれるか否かに関わらず重要だ。
仕事を通して公明正大に力を蓄えられるからだ。

(五)漢中攻略

ちょうどその頃、曹操が張魯を攻め、張魯は巴中まで退く。
黄権は、張魯と手を組むために、東州兵を率いて出兵することを劉備に申し出た。
劉備はこの進言は受け入れ、黄権に東州兵の指揮権を与え、護軍として出兵させる。
こうして黄権は実力の源たる軍事権を手に入れた。

黄権の進言がすんなりと通ったのは、彼が荊州派から支持を受けていたからだ。
荊州派の代表格たる諸葛亮の岳父は黄権の一族であり、諸葛亮は黄家の娘婿と言えた。
また荊州派の第一の猛将である黄忠も黄家だ。
だから黄権は東州派の中でも、荊州派にもっとも近しく、引き込む価値のある人物だった。

黄権は出兵するものの、張魯は漢中に戻り曹操に降伏してしまう。
その後、劉備勢は曹軍を破り、夏侯淵を斬って漢中を入手。
これを黄権の手柄とすることを、東州派の法正と荊州派の黄忠が支持する。

漢中攻略の戦略を練ったのは法正だから、夏侯淵を破ったのは荊州派の功績だとするのは、法正にとって納得がいかない。
一方、夏侯淵を斬ったのは黄忠だから、漢中攻略を東州派の功績だとするのは、黄忠には受け入れがたい。
そこで、法正の盟友であり、黄忠の同族でもある黄権が、漢中攻略の主な功労者ということにされた。
いくつもの派閥に顔が利くことほど有利なことはないのだ。

劉備が漢中王になり、益州牧を兼任すると、黄権は州府の高官である治中に任命される。
州の官僚のトップである別駕と治中には、地元人がつくのが慣わしだった。
黄権は益州に移住して何代にもなる一族だったから、益州人といって問題ない。

劉備の漢中攻略を支えた者が次々と出世していく。
黄権が成都で官僚のトップにつくと、東州兵の指揮権は法正に移り、法正は護軍将軍、および尚書台のトップたる尚書令となる。
李厳は漢中の戦いの際に、後方の反乱を平定する功があったので、輔漢将軍として引き続き辺境の守備にあたる。
孟達は房陵と上庸を攻略し、領土拡大の功があった。

(六)東州派と荊州派

これを荊州派が快く思うはずはなかった。
荊州派はいわば本妻として、劉備が他の派閥を寵愛することは許しがたい。

一方、劉備にとって見れば、派閥間のバランスをとる必要があった。
荊州を奪われたことで、荊州派の力は大きく減退。
故郷を奪われた士族は、片腕を失ったにも等しいと言える。
そして東州派が権勢を極めることとなり、派閥間の均衡が崩れる。
これは劉備にとって望ましいことではなかった。

三つのシナリオが考えられた。
第一に、東州派が荊州派を圧倒し、劉備を制御して蜀を支配する。
第二に、荊州派が盛り返して均衡を取り戻す。
第三に、東州派がダメージを負って勢いを失って均衡を取り戻す、というものだ。

現実には、東州派が力を得て劉備がお飾りになることも、荊州派が盛り返すこともなく、東州派がダメージを負った。
まず法正が亡くなり、それを見て恐れをなした孟達が逃亡。
そして荊州派は、故郷の荊州を取り戻して巻き返しを図る。
しかし結果は大失敗。
荊州派のナンバー・ツーの馬良が亡くなり、大督の馮習、別督の傅肜を失う。
荊州派は巻き返しどころか、さらに打撃を受けた。
両派閥の均衡を保つには、東州派が傷を負う必要があった。

この時、黄権は江北で曹軍の防御にあたっているが、退路を呉軍に断たれ、やむを得ず曹軍に降る。
この事件は蜀漢にとって悪いことばかりではなかった。
少なくとも派閥間の均衡を取り戻すことにはつながる。
これで劉備はお飾りにされずにすみ、呉懿と李厳は身の安全を保ったはずだ。
黄権の選択に感謝した者も少なくなかったことだろう。

(七)魏で栄華をきわめる

曹丕は三百人もの蜀漢の官員を得たことに満足し、彼らに官職と報奨を与えた。
そして、妻子を蜀漢に残したままだった彼らに、新たな妻と妾を与えた。
黄権の子、黄崇は人質として蜀漢にいた。
黄崇はもう殺されただろうと黄権に言う者があったが、黄権はそれはないと踏んでいた。
黄権を恨む者はいないはずだったし、于禁が関羽に降伏した時、曹操が于禁の子を殺さなかった前例もある。
退路を絶たれてやむなく降伏したのに、子を殺されるいわれはなかった。

黄権は新たな妻を娶り、子の黄邕をもうけた。
そして黄権は鎮南将軍・県侯を与えられた。
蜀漢から投降した者の中でも、彼は最高位の人物だったから、曹魏に降るとこれほどの待遇が得られるという宣伝の意味があった。
実権は与えられず、お飾りの役職ではあったが、鎮南将軍と言えば「鎮征」クラスの将軍号であり、楽進や于禁、徐晃が一生かかっても得られない称号だった。

投降した三百余人のうち、四十二人が列侯となり、百人以上が将軍・郎将となる。
黄権はその後、なんと遥領益州牧とされた。
蜀漢は益州というただ一つの州からなり、益州牧といえば諸葛亮だ。
いま曹魏は黄権を益州牧にするという。
まさに蜀漢の人々を投降に誘うための宣伝活動だった。

曹叡の時代になると、黄権は車騎将軍に任じられ、開府・儀通三司という役職を与えられる。
これは三公クラスの破格の待遇と言えた。
黄権は富貴を極めた。

(八)蜀漢その後

一方、蜀漢では、劉備が諸葛亮と李厳に遺児を託して亡くなる。
数十万人の難民を荊州派では統制しきれなかったから、東州派の李厳が、東州軍を指揮する中督護となる。
劉璋の時代の護軍は李厳で、その後は呉懿、法正を経て、また護軍が李厳に回ってきたことになる。

その後、諸葛亮が李厳を弾劾したために、東州派の凋落が決定的に。
荊州派が実権を握って、飾り物の皇帝・劉禅を操っていた。

黄権は思った。もし彼が魏に降らなければ、劉備が後事を託したのは、諸葛亮と黄権だったかも知れない。
諸葛料は黄家の娘婿だから、黄権とうまくやっていけただろうか?
否、結果は変わらなかっただろう。

派閥の行動は、リーダーの個人的な意思や品格とは関係がない。
リーダーが左右できるものでもない。
派閥は、派閥にとって最も有利な選択を強いる。
荊州派は利益の最大化のため、いずれにせよ東州派を消し去ったはずだ。
魏に降って三司に上り詰めた黄権と、蜀漢で弾劾されて平民に落とされた李厳の違いはなんだったか?それは運としか言いようがなかった。
蜀漢の武将の中で、もっとも幸運な結末を迎えたのは黄権だと言えた。

出典:抖音「星彩她爹讲三国」"士族生存法則"(作者:張叡氏)

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