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【三国志】俺たちの生存戦略 「程昱」

三国志専門TikToker、張叡さんの作品からの抄訳です。
程昱は五十歳を超えるまで無名の存在でした。
五十一歳で曹操に仕えると、曹操を逆境から救い、歴史に名を残す功臣となっていきます。
彼が曹操・曹丕の信頼を得て、栄誉を極めていった秘訣とは。
程昱の超一流の処世術に学びます。

(一)五十一歳からの仕官

程昱は兗州に生まれた。
力のある家柄ではなかったから、彼は五十歳になっても仕事に就けなかった。
彼は仕官するなら袁家がよいと思っていた。
袁家は士族の棟梁で、寄らば大樹の陰ということだ。

その頃、兖州のトップである州牧は劉岱だった。
劉岱は袁紹を支持すべきか、それとも公孫瓚を支持すべきか悩んでいた。
答えを出せずにいた劉岱は、程昱の頭が切れると聞いて、意見を求めた。
程昱は袁紹を支持するように勧め、劉岱は聞き入れた。

一年後、袁紹は傘下の曹操を兖州に据えた。
その年、曹操は三十七歳で、荀彧は二十九歳だった。
程昱は曹操の14歳年上で、年齢的には曹操の兄貴分になる。
そして荀彧の22歳年上で、荀彧とは親子ほど年齢が離れていた。
しかし程昱は頼み込んで彼らの弟分として仕えた。

それは曹操の後ろ盾に袁紹がいたからだった。
当時、曹操は袁紹集団の一翼という立場だった。
曹操は程昱を仲間に加えた。
以前、劉岱に袁紹を支持させた功績があったからだ。

(二)曹操を逆境から救う

曹操が兖州を占拠すると、兖州の有力氏族たちは曹操に力を貸した。
統治者に反抗するのは得策ではない。
兖州の氏族には張邈、陳宮、李典たちがいた。
彼らは、袁紹・曹操の連合軍が公孫瓚、陶謙、袁術と戦うのに協力した。

が、曹操が兖州人を重用することはなかった。なぜか?
それは曹操勢の中核を占めるのが、荀彧をトップとする河南の頴川士族だったからだ。
頴川士族が、兖州士族の台頭を許すはずがなかった。
頴川士族はいわば曹操の正妻にあたる。
曹操が正妻の言いなりであることに、兖州士族は不満でならず、矛盾が激化した。
最終的に、曹操は兖州の名士である辺讓を殺し、兖州人を震え上がらせた。

騒ぎは収まったが、曹操が陶謙との戦いに出征すると事件が起きた。
兖州の人々が呂布と結託して、曹操に反旗を翻したのだ。
兖州の氏族は次々と寝返り、曹操勢の残った城は三つだけになった。

だが、例外がいた。
李典と程昱の一族が曹操支持に回ったのだ。
典韋も、もともとは張邈についていたが、この時になぜか曹操についた。

かつての地元の仲間同士が、敵と味方に別れて刀を交え、血みどろの争いを繰り広げた。
程昱は三つの城をよく守った。
一計を案じて黄河の渡河口を封鎖し、陳宮の軍勢を足止めした。

曹操がやっとのことで帰還すると、程昱を大いに賞賛した。
三十九歳の曹操が、五十三歳の程昱の肩を叩いて、
「お前には見どころがある。この兄貴についてくれば間違いない。しっかりな」と言った。

程昱はすかさず言った。
「兄貴、最近夢を見ました。夢の中で私が太陽を持ち上げているのです。
その夢の意味が分かりました。曹操殿、あなたがその太陽です。
あなたのお名前には「日」の字があるからです」

すると曹操は言った。
「ではお前の名前を変えてやろう。「立つ」という字の上に「日」だ。この名を名乗るがいい」
程昱の狙い通りだった。
自分の欲しいものを得るには、ボスをうまく乗せることだ。

曹操と荀彧は上機嫌だった。
なぜなら程昱の夢の話が、戦さに負けた兵の士気を上げるのに役立ったからだ。
曹操殿は太陽の神様だったのか。天命があるんだ。
こうして軍団の士気が大いに上がった。

(三)兗州の督になる

曹操は呂布・張邈軍と兖州で激しく争っていた。
程昱が呂布につかなかったのはなぜか?
それは、辺境の勢力が中原に入っても、士族の支持を得られないことは明白だからだ。
中原の士族は辺境の武人を見下している。
彼らは長く続かない。董卓、李傕がそうだった。呂布も同じだ。

それに、もし曹操が敗れたら袁紹を頼ればいい。
が、呂布についた場合、呂布が破れたら誰を頼れば良いというのか。

この時、袁紹は傘下の勢力である曹操に、一族を人質として鄴城に送るよう求めた。
程昱は、受けてはなりませんと曹操に進言した。
兖州の人々はこのことを知ると、喝采を送った。
曹操が袁紹と反目して、袁紹という後ろ盾を失えば、曹操を兖州から追い出せるからだ。

しかし、その結果はどうだったか?
袁紹は曹操にかえって五千の兵を与え、袁紹自ら軍を率いて呂布を打ち破った。
人々は不思議がって、程昱に尋ねた。
袁紹の要求をはねつけたのに、なぜ袁紹は曹操を助けたのか?
程昱は笑って答えた。
「弟が兄に反発しても、兄は弟を助ける。弟が必要だからさ」。

程昱はこう考えていた。
「もし曹操が勝ち、兗州を手に入れたら、その時に兗州を誰に任せるか?
それには兗州人の力を借りるしかない。
そして信頼できる者が必要になるはずだ。その候補者は私と李典しかいない。
しかし、李典の一族は一万人もいるから、万一、謀反したら手に負えない。
私の一族は力が弱く、反乱する恐れがないから安全だ」
この読みの通り、程昱は兗州の督になった。

(四)晩年の程昱

程昱の台頭に、荀彧率いる河南の頴川士族は不満だった。
兖州の有力氏族である李典の一族も不満だった。
程昱には自分がよく見えていた。
颍川派は最強の士族だ。
後漢建国の功臣、雲台二十八将のうち七人を出したのが颍川だ。
程昱は兖州の中でさえ、名を馳せていない氏族だった。
荀彧や鐘繇、陳群と争うのはあり得ない選択だった。

この時、程昱は六十歳で「降りる」ことを決意をした。
荀彧たちに目をつけられ、草刈り場になるわけにはいかない。
程昱は自分の分をよく守った。
曹操が程昱の兵力を増やそうとしても、断固拒否した。
曹操は自分の派閥を作って荀彧の派閥と対抗したいと思っていたが、程昱は頑なに乗ら
なかった。
あらゆる提案を拒否して「降り」を貫いた。

数年後、程昱は果たして兵権を放棄し、都に行って、お飾りの役職に就いた。
同じく兖州出身の李典も程昱を見倣って、一万三千人の一族郎党を鄴城に人質として送った。
河南の有力氏族である颍川派の皆様方、よくご覧ください。
私たち兖州人は降りました。あなた方を敵に回すつもりはございません。
どうか誤解なきよう。こういう意思表示だった。

程昱は七十歳になり、今や子孫末代のことを考える時期にきていた。
彼らがずっとお飾りを続けられるように、そして栄華富貴を楽しめるようにしてやらなければならない。
だから程昱は献身的に曹丕を助けた。
その仕方は一種独特だった。
他の者は曹丕の立場を強めるのに手を貸した。
程昱は曹操と曹丕の親子がより親密になり、互いの誤解の種が解消するように助けた。
そうして曹操と曹丕の両方から感謝された。

十年後、程昱は八十歳になった。
曹操が亡くなり、曹丕が皇帝になった。
程昱は九卿に列し、郷侯に封じられ、息子や孫も侯に封じられた。
程昱の役職はお飾りに過ぎなかったが、依然として慎重に行動した。
同僚に逆らい、口論することで、同僚たちとの関係をわざと悪くしていた。

ある人が程昱に聞いた。
「どうしてそのように四方八方に敵を作るのですか?」
程昱は笑って答えた。
「主君が最も好きなのは、派閥に属さない人間なんだ」

果たして、曹丕は程昱を三公に任命しようとした。
だがその前に程昱は亡くなった。八十歳で寿命を全うしたのだ。
曹丕は涙を流し、程昱を車騎将軍に追封し、三公の地位を与えて「粛」という諡号を贈った。

(五)没後の評価

十三年後、曹叡は祖父の曹操に尽くした功臣を太廟に祀ることにした。
第一陣の三人が夏侯惇、曹仁、そして程昱だった。
夏侯淵、曹洪、張遼、郭嘉でもなく、程昱が選ばれたのだ。
二十六人の功臣の中で第三位の序列だった。
そして程昱の子孫たちも栄誉と富貴を享受していた。
これこそ程昱が望んでいたことだった。

ある人は、賈詡の方が世渡りが上手だったと言う。
賈詡は董卓、牛輔、李傕、段煨、張繡、曹操と次々に仕えた。
一方、程昱は前半生を官職に就かず、曹操一人に仕え続けた。
読みが深かったのはどちらだと言えるだろう?
三国時代には多くの智者がいたが、程昱ほど世間に通じている人はいなかったと言ってよい。

出典:抖音「星彩她爹讲三国」より"士族生存法則"(作者:張叡氏)

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