【三国志】俺たちの生存戦略 「献帝」
三国志専門TikToker、張叡さんの作品からの抄訳です。
後漢のラストエンペラー、献帝は名前を劉協と言います。
彼は幼少期に、父の霊帝の崩御、祖母や親族の死に直面します。
命の危険にさらされながら、董卓の支援を受けて皇帝に即位。
即位後も曹操の支配に苦しみ、曹丕に禅譲を強いられます。
漢王朝を復興する夢を抱き続けた生涯でした。
(一)悲劇の幼少期
劉協、のちの献帝が八歳の時のことだった。
霊帝の子で、兄の劉辯は十三歳、弟が劉協だった。
劉協は兄と遊びたかった。しかし祖母の董太后が許してくれない。
祖母はこう言った。
「お前の兄さんの一家は悪い人たちだ。
お前のお母さんは何皇后に毒殺された。
何皇后と大将軍の何進はずっとお前を殺そうとしている」
劉協がわけを尋ねた。董太后はこう答えた。
「お前の父さんは、お前に皇位を継がせたいんだ。
でも何皇后と何進は劉辯を皇帝にしたがってる。
そして何家は士族のトップの袁家と手を組んでる。
この世界でお前を一番邪魔だと思っているのが何家と袁家なんだ。
お前を守れるのは董家だけだよ」
数か月後、董太后の言葉が現実になった。
ある夜、霊帝が突然亡くなった。
その時、そばにいたのは何家と袁家の人たちだけだった。
何進は「先帝の遺言により、劉辯が皇位を継ぐ」と言い張った。
が、霊帝が劉協に後を継がせようとしていたのは、周知の事実だった。
何進は強引に劉辯を皇帝に据えて、自分は皇帝の舅になり、袁隗を太傅にした。
董太后は劉協にこう言った。
「お前の父さんは何家と袁家に殺されたんだ。
お前が皇帝になったら復讐されるのを恐れたんだよ。
だから奴らはお父さんを殺して、劉辯を皇帝にしたんだ」と。
八歳の劉協は怒りを覚えた。
だが、もっと恐ろしいことが起こった。
何進たちが兵を派遣して、叔父の董重の邸宅を包囲したのだ。
叔父は自殺させられた。
董太后は「お前を守れるのは叔父だけだ」と言っていた。
その叔父がいなくなってしまったのだ。
数日後、董太后も病で亡くなってしまう。
劉協はよく悪夢を見た。
何進と袁家の人たちが剣や毒酒を持って迫ってくる夢だ。
しかし現実は違った。何進たちは急いで劉協を殺すつもりはなかった。
董家の人々は死に絶えたし、劉協はまだ子供だったから、もはや脅威とはみなしていないようだ。
(二)皇帝に即位する
敵がいなくなった今、彼らは内輪もめを始めた。
袁紹は何進を宦官と対立させるために、西涼の将軍・董卓を呼び寄せた。
その結果、宦官が何進を殺した。
次に、袁家が宦官を殺し、ついでに何進の弟も殺した。
こうして何家は滅んだ。。
宦官たちは劉協と劉辯を連れて逃げたが、董卓の軍に捕まった。
董卓の前に連れられた劉辯は、恐怖のあまり言葉が出なかったが、劉協は董卓の目をしっかり見据えて、堂々と答えた。
董卓は劉協を気に入り、「俺は君の祖母、董太后の一族だ」と言った。
董卓は劉辯を廃し、劉協を皇帝に立てた。
そして劉協の仇を討ってくれた。
まず、母を毒殺した何皇后を毒殺した。
叔父の董重を自殺させた何進については、遺体を鞭打って罰した。
父である霊帝を殺した何家の罪を償わせるため、劉辯を殺した。
董卓のおかげで父母、祖母、叔父の仇を討てたことに、劉協は感謝した。
そして、劉協は父の遺志を継いで漢の皇帝となった。
しかし、これで終わりではなかった。
何家は滅びたが、袁家がまだ残っていた。
袁紹は河北に逃げ、弟の袁術や、袁紹の弟分の曹操も逃げた。
彼らは地方で何進の元部下たちと結託し、董卓に反旗を翻した。
袁紹は「真の皇帝は劉辯で、劉協は偽の皇帝だ」と言った。
天下の士族も劉協を認めないと言い張った。
袁紹は劉協の親戚にあたる劉虞を皇帝に立てようとしていた。
董卓は都の袁家を一掃したが、争いが止むことはなかった。
袁紹たちは内通者の王允を使って董卓を暗殺しようとした。
禁軍校尉による最初の暗殺は失敗したが、董卓の側近である呂布による暗殺が成功し、王允が都を掌握した。
劉協は命の危機を感じた。
袁紹が劉虞を皇帝に立てれば、劉協は廃され、やがて病死したことにされるだろう。
しかし、天がふたたび劉協を救った。
董卓の元部下の李傕と郭汜が十万の大軍を率いて長安を攻め、劉協を救い出した。
彼らは劉協を奪い合ったが、少なくとも劉協は生き延びていた。
(三)曹操の庇護を受ける
劉協が最も絶望している時、董承という男が現れた。
彼は董卓の娘婿の部下だった。
董承は自分が董太后の一族だと言った。
それが事実かどうかは劉協にはどうでも良かった。
董承は劉協を守り、劉協は彼の娘を娶った。
董承は劉協を守るために、曹操に頼ることにした。
曹操と聞いて劉協はやるせない思いがした。
恩人の董卓を袁紹と一緒に討とうとした人物だったからだ。
董承はこう言った。
「曹操は士族ではないから、袁紹とは違います。
やがて曹操と袁紹が反目する時が来るでしょう。
その時に、曹操に袁紹を討たせればよいのです」
曹操の庇護を得たことで、危機は去った。
しかし、董承は曹操を制御しきれず、曹操に権力を握られることになった。
劉協と董承は、密かに曹操を除こうと計画したが、協力者は少なく、計画は頓挫した。
(四)劉備に助けを求める
劉協には、なぜ天下の主である自分に誰も味方しないのか不思議だった。
董承によると、それは士族が支持しないからだということだった。
百年もの間にわたって、士族は皇族と対立してきた。
霊帝が宦官を使って士族を抑えようとしたのもそのためだった。
黄巾の乱を裏で支持していたのも士族だった。
そして天下の士族の代表たる袁紹が、反・劉協を明らかにしていたから、劉協が士族の支持を得ることは望めなかった。
士族に期待できなければ皇族に助けを求めるほかなかった。
そこで白羽の矢が立ったのが劉備だった。
董承は曹操を刺殺するために劉備の助けを借りようとした。
しかし、計画が露見する前に劉備は逃走し、董承とその家族は殺されてしまった。
劉協は再び孤立し、失望していたが、劉備が袁紹と手を結んで曹操と戦っていることが救いに感じられた。
官渡の戦いで、劉備が許昌を奇襲すると、劉協は劉備が自分を救出に来てくれることを待ちわびた。
その後、赤壁の戦いで劉備が曹操を破ると、劉備の到来を待ち続けた。
関羽が曹操の七軍を水攻めして天下に武威を示した時も劉協は救出を期待した。
(五)後漢の滅亡
西暦二二〇年、劉協は曹丕に禅譲を強いられた。
同じ年に、劉備が漢を建国した。
劉協は、劉備がまもなく秘密裏に自分を救出し、成都で自分を再び皇帝に立てるものと信じていた。
しかし、その時はついぞ来なかった。
劉備と諸葛亮は、この劉協が曹丕に殺されたと誤解しているに違いない。
曹丕は自分を公爵に封じたのだから、少しでも調べれば分かるはずだ。
どうして死んだと思っただろう?
私は生きている。曹丕の監視は厳しくないから、密偵を送って私を救い出せばいいのに。
劉協は失望したが、諸葛亮の度重なる北伐に期待した。
諸葛亮が北伐に成功すれば、自分は救い出されると信じていた。
しかし、北伐が失敗する度に希望を失っていった。
西暦二三四年、諸葛亮が病死したと聞いた時、劉協はもう希望はないことを悟った。
そして劉協は亡くなった。
これが献帝の一生だった。
董太后の孫であり、骠騎将軍・董重の甥、そして太師・董卓に立てられた皇帝であり、車騎将軍・董承の婿、董貴人の夫。
董という姓の人々と生きた人生だった。
彼は袁家と何家に虐げられ、士族に見放されながら、漢の復興を夢見て生き続けた傀儡皇帝であった。
出典:抖音「星彩她爹讲三国」"士族生存法則"(作者:張叡氏)