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【三国志】俺たちの生存戦略 「孟達」

三国演義では、孟達は危機に陥った関羽への援軍を断るよう、劉封に進言して関羽を見殺しにした挙句、魏に走った裏切り者として描かれています。
真相はどうだったのでしょうか?

三国志専門TikToker、張叡さんの作品からの抄訳です。

(一)故郷を追われる

孟達は三輔という地の豪族だ。
同郷に法正がいる。
法家はこの地の名士だ。
法正の曾祖父は天下第一の郡と言われる南陽の太守を務めている。
父親は都で三公九卿を補佐。
孟達の父親は、法家の助けで涼州刺史になり、三万の軍を率いて異族を討伐。
孟家と法家は三輔地区の有力な一族だった。

しかし、李傕、郭汜、張済が都を占領。
彼らは士族の協力が得られず、食糧が尽きたので、三府と南陽を略奪する。
その結果、十万戸以上の難民が益州に逃れる。
一戸は三人から五人と思われるから難民の人数は数十万人におよぶ。
その中に孟達と法正の姿があった。

彼らは三輔では土地を持っていたから、食糧や木材、鉄鉱、兵士などを地方官に上納することができた。今は地盤を失ってしまい、一族を繁栄させるすべが失われた。

法正の祖父は「讖緯」と呼ばれる予言術に精通している。
益州の名士たちの間でこの讖緯が流行していた。
そのため法正は益州で歓迎される。
特に、益州の豪族・張松の知遇を得た。

その後、劉焉が亡くなり、劉璋が後を継ぐ。
益州の豪族たちはこれを外来勢力を倒すチャンスと考え、反乱を起こし、成都を包囲して劉璋を倒そうとする。
しかし、劉璋は三輔と南陽の難民の協力を得て、豪族たちを打ち破った。

三輔と南陽の難民は益州の東から来たので、劉璋はこの難民で編成した軍を「東州軍」と呼んだ。
孟達と法正は窮地に立たされる。
彼らは東州派の上層部に入れなかったのだ。
以前は小作人だった者たちが、東州派の主流を占め、彼らを侮辱した。
頼れるのは張松だけだった。

(二)張松の策

張松は益州の第一の豪族だったから、当時の習慣にならって益州別駕に任じられている。
張松を中心とする益州の豪族は、外来の圧政者である劉璋の打倒をねらう。
劉璋が東州派を使って益州の本土派を抑圧しているからだ。
だから張松は劉備を裏で支援し、劉璋に取って代わらせようとした。
劉備を入蜀させ、益州派の復権を画策していたのだ。

一方、劉璋は劉備を客将として迎え、曹操に対抗するつもりだった。
劉璋は、張魯がすぐに曹操に降伏し、曹操がまもなく漢中を占拠すると見ていた。
漢中は益州の玄関口であり、漢中が曹操に占領されれば益州は危険にさらされる。
曹操に対抗する武将として、劉備よりふさわしい者はいないと思われた。
劉備を制御しきれなくなる恐れはある。
が、もし劉備が裏切れば、劉璋と曹操に挟撃されることになるので、心配には及ばないと考えられた。

(三)劉備を助ける

劉備への使者には、法正と孟達が選ばれる。
二人とも劉璋が信頼を置く東州派だ。
ただ、法正は張松ら益州派から自分たちの一員だと見なされていた。

法正は孟達を連れて劉備に面会。
劉備と法正は密談し、孟達を江陵に残す。
劉備は荊州軍を率いて益州に入る。

結果として、劉璋の読みは外れた。
曹操は益州に侵攻せず、劉備は挟撃されず、劉璋を倒した。

が、益州派の読みも外れる。
劉備は益州本土の氏族を重用しなかった。
劉備が進攻すると、東州派のトップ・李厳は巧妙に立ち回り、劉備に進んで投降。
益州を占領した劉備は東州派と手を結ぶ。
こうして益州派への圧迫が続いた。

一方、東州派のはみ出し者だった法正の地位が急上昇する。
東州派の二番手となり、その上にはわずかに外戚の呉懿がいるだけだった。

劉備は東州派を引き続き重用。
漢中の戦いでは、呉懿が都・成都を守り、法正が前線で軍師を務め、李厳が後方の乱を平定し、孟達が漢中の防衛と上庸の制圧を担当。
東州派は勢いを得て、法正は尚書令・護軍将軍に、孟達は東部の統帥に任命される。

劉備は人事上のバランスを取るため、荊州出身の劉封を孟達の側に派遣。
劉封を東部のトップに据え、孟達をその補佐とする。

(四)劉備の嫡子・劉封

孟達と劉封の関係は微妙なものがあった。
劉封は劉備の養子だったが、嫡男の扱いだ。
この嫡男・劉封を荊州派が支持。
一方、阿斗すなわち劉禅は妾の甘夫人の子であり、庶子だったが、東州派が支持。
問題は、劉封が嫡男でありながら養子であり、劉禅が庶子でありながら実子ということだった。

劉封は副軍将軍の任命を受けている。
これは曹操が曹丕を副丞相に任命したことと似ており、劉封の権威を強めた。
劉封は孟達を牽制した。
孟達が異なる派閥、東州派の人間だからだ。
劉封は孟達の軍楽隊を取り上げてしまう。

威張り散らす劉封を見て、孟達には滑稽に思えた。
劉封が副軍将軍に任命されたのは、東州派が日の出の勢いであるため、バランスをとったに過ぎない。
劉備は実子の劉禅を皇太子に立てるつもりで、東州派は今後も勢いを増していく。
劉封は自身の即位を信じて疑わないが、孟達は劉禅が後継者だと見ていた。

(五)運命の選択

そんな時、関羽から使者が来る。
襄陽を攻めるので援軍を出すようにとのことだった。
この時に限って孟達と劉封は意見が一致。
「援軍は出せない」というものだった。

上庸の豪族たちは一筋縄ではいかない相手だ。
彼らは以前は張魯と結び、曹操から官職を授かっていた。
今は時流を見て劉備に従っているだけだ。
兵力を割いて援軍を出せば、上庸で内乱が発生するおそれがあった。

また、関羽は優勢に立っており、曹仁を圧倒している。
援軍を出しても、功績は関羽のものになるだけだ。
だから援軍を断った。

しかし、思わぬ出来事が立て続けに起こった。
関羽が斬られ、法正が亡くなり、劉禅が皇太子に就いたのだ。
孟達は危機感を抱いた。
孟達と劉封の二人が危険にさらされると見た。
すぐに逃げなければならない。

あれほどの成功を収めた法正がなぜ死んだのか。
尚書令と護軍将軍の地位にあった法正が。
派閥のバランスを取るためとは言え、あまりにも過激な措置だ。
劉備が何者かに惑わされていると孟達には思われた。
劉備の側に佞臣がいて、その者が法正の排除を進言したのだ。
孟達は逃げる前に劉備に手紙を書き、佞臣に惑わされることのなきよう、と伝えた。

魏国で最も近くにいるのは南部統帥の夏侯尚だ。
孟達は彼に保護を求め、夏侯尚と徐晃を上庸に引き入れることにし、その案内役を申し出る。
上庸の豪族は劉備に見限りをつけると孟達は確信していた。
関羽の死によって荊州全体が崩壊しつつあり、劉備に忠誠を誓う理由がなくなったからだ。

劉封にも手紙を送り、皇位継承の夢は捨てるようにと伝えた。
劉禅が皇太子となった今、劉封に生き延びる道はないと説得。
しかし劉封は説得に応じなかった。

(六)劉封の運命

結果として、豪族たちが劉封を見限り、劉封は敗走して成都に逃げ帰る。
が、劉備に捕えられ、二つの罪状で処刑された。
第一に、関羽を支援せず、関羽を死に追いやった。
第二に、孟達を抑圧して離反を招いたことだ。
この罪状が単なる口実であることは、誰の目にも明らかだった。
関羽は、上庸からの援軍の有無にかかわらず落命していただろう。
そして孟達の離反は、劉封の抑圧とは関係がない。

劉封が死ななければならない理由は、劉禅が皇太子になったいま、劉封の存在が脅威になるからだ。

劉封の処罰は、荊州派のトップたる諸葛亮の判断に委ねられた。
諸葛亮は劉封の処刑を進言。
死を前にして、劉封はようやく情勢を理解する。
孟達が語ったことは真実だった。
悔やんだが、すでに手遅れだった。

(七)孟達の最期

孟達は魏の功臣となる。
曹丕は房陵、上庸、西城の三郡を統合し、孟達に統治させた。曹丕、夏侯尚、桓階が後ろ盾となって孟達を庇護する。

一方、蜀漢では東州派の黄権が離反。
劉備は死ぬ前に、荊州派の諸葛亮と東州派の李厳に後事を託す。
李厳は中央軍である護軍を引き続き掌握。
護軍を東州派が率いるのはもはや伝統となっていた。
東州派が数十万人の難民を代表しているからだ。

しかし、李厳は長く持たないだろうと孟達は見た。
案の定、東州派は諸葛亮率いる荊州派に押されはじめる。

孟達にとって誤算だったのは、後ろ盾の曹丕、夏侯尚、桓階が、次々と亡くなったことだ。
新しい皇帝に曹叡が即位し、司馬懿が南部大統帥となる。
司馬懿は魏の士族の代表格で、曹操の宗室と対抗している。
一方、孟達は曹丕や夏侯尚に重用された宗室側の人間だ。
士族にとって目の敵になるのは明らかだった。

諸葛亮は孟達の動揺を見抜き、降伏を促す手紙を送ってきた。
しかし、孟達には懸念があった。
彼の軍勢はかつて諸葛亮の義兄・蒯祺を殺害した。
その義兄は魏の太守だったから、劉備軍にいた孟達は敵を倒したまでだ。
が、諸葛亮がそのことを恨んでいたらどうする?

孟達は身の振り方をすぐに判断できなかった。
そこで諸葛亮は、孟達が蜀漢に降伏するという噂を本土の豪族たちに流した。
豪族たちはすぐにその情報を司馬懿に報告。
司馬懿は迅速に動き、孟達を討った。

彼は関羽を害するつもりはなく、劉封を陥れるつもりもなかった。
懸命に時勢を見抜いたが、運命を変えることができなかった。
孟達は、関羽を死に追いやった裏切り者として、後世の人々に記憶された。

出典:抖音「星彩她爹讲三国」"士族生存法則"(作者:張叡氏)

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