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<国学大師が語る> 孔明の智慧 ①青年期の志

台湾師範大学の故・曽仕強教授(1935-2018)は、易経の講義が有名で、中華圏では「国学大師」と仰がれる存在です。
三国演義についても造詣が深く、多くの講義を残しています。
その中から、諸葛亮孔明について語ったものを翻訳・抄録しています。
原典:孔明的領導芸術

曽仕強教授

三国演義と中国文明の真髄

歴史上、中国人に最も読まれてきた本。
それが「三国演義」です。

「論語」よりもよく読まれてきた。
こう言えば、影響力の大きさが伝わるでしょうか。

「論語」が科挙と結びついたのは、中国人にとって不幸なことでした。
試験科目として扱ったために、真理が置き去りになってしまったからです。

「三国演義」がここまで読まれてきたのはなぜか。
それは「世道人心」、この微妙なる世の中の道理と、人の心を描き切っているからです。

中国文明の真髄こそ、この「世道人心」の四文字です。

ところが、この精神が、秦や漢の時代から次第に失われていきます。

宋の朱子学、明の陽明学が登場すると、道徳の崩壊に拍車がかかりました。
本来は柔軟で生き生きとした智慧が、硬直化していったのです。
理性は必要ですが、偏ってしまうと人情が失われてしまいます。

孔明は三国時代の時代精神

さて、「三国演義」では、三つの国の争いが描かれます。
実際には四つめの国がありますが、ここでは触れません。

一つ目は、曹操の曹魏です。
二つ目は、劉備の蜀漢です。
この「漢」という国号には、孔明が関わっています。
三つ目は、孫権の東呉です。

曹操は「革新派」です。
曹操が悪名を残したのは、大きな革新を図ったからです。

劉備は「保守派」です。
体制を守ろうとしました。

孫権は「官僚」に近い存在です。
彼については、あとで話しましょう。

数多くの人物がいる中で、この時代の「正統」を自らの使命として生きたのは、孔明だけでした。

私たちは歴史を学ぶとき、王朝の交代に目が行きがちです。
しかし、本当に見るべきものは「時代精神」です。

歴史上、聖賢の道を守ろうとした人々がいました。
これこそが、代々受け継いできた国の宝なのです。

不思議なことに、孔明は後漢の献帝と同じ年に生まれ、同じ年に亡くなっています。
魂が二人に分かれて宿ったように、私には思えてなりません。

献帝は宮中から、孔明の助けを待ち続けました。
孔明は外にあって、漢室復興に挑み続けました。

孔明は志半ばで落命します。
ある意味では、失敗したと言えます。
が、孔明の生き方は、私たちに感銘を与え続けています。

ちなみに、一番人気があるのは誰でしょうか?
それは張飛です。
張飛の真っ直ぐな性格が好かれているのでしょう。

「三国演義」は単なる書物ではありません。
単なる物語でもありません。
この本は、中国の「世道人心」を体現しているのです。
これこそが「三国演義」の至高の価値と言えます。

若くして宰相を志す

孔明は54歳でこの世を去っています。
その人生は、前半の27年間と、後半の27年間に分かれます。

前半生で大事な点がいくつかあります。

第一に、戦乱の時代に生まれ育ちました。
干ばつや洪水なども経験しています。

本当の苦労を味わったということです。

苦労していない人は、リーダーになってはいけません。
多くの人を不幸にするからです。
民衆の苦しみを知らないので、仮に善意だったとしても、現実に即した手が打てないのです。

孔明は違います。
若い頃、数々の苦労を味わいました。
母親を早くに亡くし、父親が後妻を迎えます。
間もなくして、父親も亡くなってしまいます。
孔明は孤児として、戦乱を逃れて各地を転々としました。

彼は動乱の時代の悲しみを、身をもって知ることになります。
自分が生まれてきた意味を考えたことでしょう。
それは富貴を楽しむことではありませんでした。
孔明は生涯、清貧を保ち続けました。

孔明の前半生で重要な点がもう一つあります。
彼は優れた宰相になる志を立てています。

当時、多くの人物が皇帝の座を狙い、争っていました。
争いの結果、最も被害を受けたのは民衆でした。
人口が半分以下に減ったと言われます。

これは現代にも通じることです。
力のある人間たちが争い合い、利益を独占しています。
そのしわ寄せを立場の弱い人々が受けるのが、世の常です。

孔明は見通していました。
皇帝の座をめぐる権力者の争いが、民衆の悲劇を生んでいることを。

孔明は、優れた宰相になるという志を立てます。
なぜなら、国というものは、明君がいるだけでは不十分だと知っていたからです。

明君が明君であり続けるのは難しいことです。
それはなぜか。
「権力は人を腐敗させる」からです。
この事実は古代から変わることがありません。
最初は素晴らしい人であっても、権力を手にした途端に変貌してしまうのです。

青年期の曹操は、国を救う志をもっていました。
しかし、晩年には恐ろしい存在となってしまいます。

孔明は、宰相として何を成すかを深く考えていました。
彼は二人の人物を目標とします。
一人は管仲、もう一人は楽毅です。
まだ若い頃から、自らを管仲や楽毅になぞらえていました。

現代の私たちには「孔明を目指す」と言う人はいません。
あまりにもだいそれた望みだからです。
思っても口に出す人はいないでしょう。

自分は当代の孔明であると言った人が歴史上、一人だけいます。
誰でしょうか?
清朝の左宗棠です。

左宗棠は「私は当代の諸葛亮だ」と宣言します。
「あの諸葛亮よりも私は神に近い」とまで言っています。
このことで彼は人々の顰蹙を買いました。

皆さんにもぜひ深く考えていただきたい。
社会では軽率な発言は許されません。

曹操もまた、軽率な発言でつまづいています。
地位の低い人なら、好き勝手に話しても許されることでしょう。
が、地位の高い人なら、たった一つの言葉の間違いが大きな災いにつながるのです。

孔明は、人の世のことわりに通じていました。
若くして辛酸を味わったために、物事を深く洞察する力を得ていたのです。

第二回に続く

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