【三国志】俺たちの生存戦略 「李典」
曹操を支えた名将の一人に李典がいます。
が、彼の活躍はあまり知られていません。
李典と一族の知られざる物語をお届けします。
三国志専門TikToker、張叡さんの作品からの抄訳です。
(一)家族の死
李典は兗州の出身で、彼の一族は一万人もの配下を従える豪族だった。
李典は幼い頃から学問をさせられた。
一族は彼を将来、中央で士官させるつもりだったからだ。
曹操が兗州を占拠すると、一族は曹操の傘下に入る。
曹操のもとで一族はよく戦った。
兗州を攻めてきた青州兵を撃退し、豫州の袁術を敗退させた。
彼らは負け知らずだった。
財力を活かして装備をととのえていたし、地元を知り尽くし、結束も固かったからだ。
曹操軍の騎兵第一部隊は曹仁で、歩兵第一部隊は李典の一族だった。
ただ、李典はまだ幼かったので、戦いには加わっていなかった。
そんな時、突然、悪い知らせが届いた。
族長の叔父が呂布軍に殺されたのだ。
叔父は数人の側近とともに兵を労っていたところ、呂布軍に捕まり、降伏を拒んだので殺されたという。
叔父の弔い合戦がはじまった。
いなごの害のために食糧が不足する中、地元の豪族たちは呂布を支援しなかったので、呂布軍は一敗地に塗れて、兗州から敗走していった。
一族を継承したのは、叔父の息子、つまり李典の従兄だ。
曹操は従兄を青州刺史に任命した。
それは青州を攻略した暁に、青州刺史の地位を与えると言う意味だった。
刺史は州のトップに相当する役職だ。
従兄は一躍、曹軍で最高位の将となった。
その地位は夏侯惇、夏侯淵、曹仁、曹洪すら凌いでいた。
一族が曹軍で最大の兵力を持ち、強力な戦闘力を誇っていたからだろう。
だが、そんな従兄が突然、病死してしまった。
自然の流れで、李典が一族を継承した。
一族の当主となった李典が青州刺史を引き継ぐはずだったが、経験不足を理由に、李典は県長に任命される。
その後、太守に昇進したものの、青州刺史のポストは回ってこなかった。
(二)程昱との対話
そんな中、同じく兗州人の程昱が兗州督に任命された。
兗州督は州のトップの役職だ。
数々の戦功を立てた我が一族をさしおいて、なぜ程昱がという疑念が広がった。
戦争になったら、われわれの軍団はわざと手を抜けば良い。
程昱のざまを見てみろ、という一族の方針が固まった。
しかし、官渡の戦いのような大決戦に、一族が動員されることはなかった。
第一部隊の栄誉は与えられず、任されたのは物資の輸送だった。
それだけではない。
曹操は一族を監視するために夏侯渊を派遣した。
夏侯渊は曹操の兄弟であり、しかも、互いの妻が姉妹という間柄だ。
若い頃に曹操の代わりに牢獄に入ったこともある。
曹操が最も信頼する人物だ。
そんな仕打ちにも、曹操がこの地を支配している以上、抵抗できなかった。
官渡の戦いが終わると、夏侯渊も帰任していった。
一族は戦功を挙げたかったが、命じられたのは、程昱とともに物資を輸送する仕事ばかりだった。
李典の一族からの敵意を感じた程昱が、李典を諭して言った。
「考えてみてほしい。
われわれは囚人同士じゃないか。
曹軍の胴元は潁川士族だ。
つまり、荀彧、荀攸、鍾繇、陳群たちだ。
彼らがどうして兗州士族の台頭を許すだろうか。
それに、張邈と陳宮が反乱を起こしたかどで、兗州人は危険視されている。
これが、われわれが輸送隊しか任されない理由だ。
干されているということだ」
李典は状況を悟った。
(三)三国史上最強の輸送隊
李典は輸送隊を粛々と続けた。
袁紹に輸送路を封鎖されたことがあったが、
ここぞとばかり、袁紹軍を撃退した。
輸送隊が正規軍を打ち負かすのは前代未聞のことで、天下の人々を驚かせた。
また、劉備が許昌に奇襲をかけた時、
首都防衛軍は夏侯惇で、援軍で于禁が出撃した。
が、夏侯惇と于禁は劉備の伏兵に遭って敗走。
近くに居合わせていた李典が劉備に立ち向かい、劉備を撃退した。
これが再び天下を震撼させた。
名声をあげた李典を、なぜ曹操は用いないのか?
という疑念が世間に広がったから、李典はその後、鄴城の攻略や、楽進とともに壺関や管承の攻撃に加わった。
(四)最期の戦い
李典には思うところがあった。
一族郎党の一万三千人を曹操に差し出し、鄴城に人質として置いた。
そして千人ほどの部隊だけを残して、一般将校となった。
曹操を安心させる必要があったのだ。
曹軍の武将たちは互いに軽蔑し合っていた。
于禁と楽進は、自分たちこそが元老だと思っていた。
武勇を誇る張遼、徐晃、張郃、朱霊を、降将と蔑んでいた。
李典は李家の千人の部隊を連れて曹操に従い、馬超を討った。
さらに、孫権が攻めてくると聞くや、楽進や張遼と共に合肥を守った。
張遼はかつて呂布軍におり、李典の叔父の殺害に関与していたと噂されていた。
しかし、李典はこの仇を水に流したのだった。
合肥には八千の守備兵がいた。
張遼は決死隊・八百人を編成する作戦を立てた。
城内で李典の千人の部隊に勝る者はいなかった。
袁術、呂布、袁紹、劉備と戦い、撃退した精鋭たちだった。
次の日、李典は李家の八百人を引き連れて、張遼と共に出撃した。
こうして、逍遥津の戦いで大勝し、張遼は名を上げた。
この時に合肥で発生した疫病が原因で、李典は死んだ。
呉軍の甘寧も同じ疫病で亡くなったので、李典は臨終の際に「甘寧が道連れなら悪くないな」と言って笑った。
後世、逍遥津の戦いについては張遼の功績だけが知られ、李典と八百勇士のことは忘れ去られている。
曹操は李典の遺族を重用しなかった。
曹操が亡くなり、曹丕が即位すると、合肥での功績が評価されて、李典の息子の食邑が増やされた。
重用されることはなかったが、子孫はより良い生活を送れるようになった。
出典:抖音「星彩她爹讲三国」"士族生存法則"(作者:張叡氏)