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【三国志】俺たちの生存戦略 「禰衡」

禰衡(でいこう)は、三国志随一の毒舌で知られています。
が、その背景には、わざと炎上して「名声」を得る、というねらいがあったのかも知れません。

三国志専門TikToker、張叡さんの作品からの抄訳です。

(一)不遇の日々

禰衡は青州・平原国の出身だ。
彼が十九歳の時のことだ。
一族の族長が尋ねた。
「お前は孔融が梨を譲った話や、王祥が氷を溶かして鯉を求めた話を知っているか?」

禰衡は答えた。
「知っています。
孔融は大きな梨を兄に譲って譲り合いの心を示しました。
王祥は継母に新鮮な鯉を食べさせるといって、池の氷を自分の体で溶かして魚を捕りました。孝行な話しです。」

族長は言った。
「そう、その話しだ。
お前もそれに倣って、孝行話しを作りあげるのだ。」
禰衡は驚いて尋ねた。
「作り話だということですか?」

族長はため息をついて言った。
「お前は単純だな。
孔家のような大氏族で、梨に事欠くわけがないし、王祥の家も大氏族で、鯉が手に入らないわけがない。
どれも自分の名を挙げるための作り話だ。
お前もよく研究して同じような話を作りなさい。
でも、あまりにも似すぎてはならない、そうでないと嘘っぽく見える」

禰衡は家族の知恵を借りていくつかの孝行話を作り上げたが、評判は県内でしか広まらず、孔融や王祥のように全国的な高評価を得ることはできなかった。

(二)孔融との出会い

そんな時、一通の手紙が届く。
送り主は同じ州の北海国相、孔融。
孔融は禰衡の孝行話に興味を持ち、交友を結びたいと言う。

孔融は禰衡と頻繁に書簡を交わすようになる。
その噂はすぐに広まった。
孔融は孝行を非常に重視し、自分にも他人にも厳しいことで有名だ。
民が墓前で泣く様子が十分に悲しんでいないと感じたら、即座にその民を処刑するほど厳格だった。
そして今回、領地に孝行な若者を見つけたので、その若者と書簡を交わすことにしたという評判が広まる。

孔融は四十歳、若者つまり禰衡はまだ二十歳だった。
孔融は自分の家柄や官職、年齢を誇示せず、まるで友人のように若者に接している。
このことで孔融の名声は一気に高まった。
しかし、その若者に関心を持つものはなかった。

禰衡は孔融と二年近く書簡を交わした。
しかし、孔融が禰衡に仕官先を推薦する気配は一向にない。

そんな折、突然六歳の子供が名声を博した。
その子の名は陸績と言った。
陸績は父親と一緒に袁術を訪れた際、みかんを三つ隠し持って帰ろうとした。
聞くと、母親に渡すためだという。
この陸績の孝行話しは瞬く間に世間に広まり、彼は孝子として名声を得る。

禰衡はこの話を聞いて憤慨した。
江東の陸家がみかんに事欠くなんてありえない。
こんな話はいかさまだと思った。
族長はと言った。
「妬むな。陸家は江東の有力氏族だから、彼らの話はすぐに広まる。
我々とは違うんだ」

禰衡はついに孔融に仕官の相談をする。
孔融からの返事には、禰衡の文才を称賛する言葉が綴られていた。
そして、
「君は優れた師につくと良い。
荊州の劉表が学校を設立しており、そこには宋忠をはじめ多くの師がいる。
彼らの弟子になるのが出世の近道だろう」
と書いてあった。

禰衡はその道を進むことにした。
彼は一族の希望を背負い、二十一歳の時に荊州に旅立った。

だが、現実は甘くなかった。
宋忠に会うことすら叶わないのだ。
彼はようやく悟った。
先生方は荊州の有力氏族の子弟を相手にしている。
中原から来た者も生徒にとってはいた。
例えば徐庶や石広元、孟公威などだ。
しかし、禰衡のような青州出身で名声のない者に、先生方は見向きもしないのだった。

(三)都の名士を罵る

一年が過ぎ、二十三歳になった時、禰衡は孔融に助言を求める手紙を送る。
しかし返事は来ない。

この頃、曹操が献帝を許昌に移して、新たな朝廷を設立。
朝廷には人材が不足していたので、優秀な人材を急募していた。
曹操は「有能な人を登用する」と宣言し、家柄を問わないとしていた。
だから禰衡のような出自の者たちも、この機会に賭けようという者が少なくなかった。

許昌に到着した禰衡は、あちこちを訪ね回り、機会を求めた。
しかし、どの家も門前払いだった。
そんな時、突然ある人に声をかけられ、大きな邸宅に招かれる。
そこには見知らぬ中年の男が座っていて、なんとそれは孔融だった。

以前出した手紙に返事がなかったのは、孔融が袁紹の息子である袁譚の攻撃を受けて北海を失い、逃亡していたためだった。
今は曹操が許昌に朝廷をつくり、名士を募ったので、孔融は朝廷に招かれて官職を得ていた。

孔融は自分は漢の臣下であり、曹操とは相容れないと宣言した。
彼は自分のチームを作ろうとしていて、禰衡をその一員に迎え入れるという。
禰衡は「私はどうすれば良いですか?」と尋ねた。
孔融はと言った。
「忠臣の話を広めるんだ。
君は皇帝に忠誠を示し、曹操に協力する士族たちを批判するんだ。
分かったね?私の言うとおりにすれば良い」

その後まもなく、天下に爆弾のようなニュースが広まった。
禰衡という若い男が、颍川士族の荀彧を「なよなよして青白いから葬式に呼ぶのに相応しい」と言い、同じく颍川士族の陳群を「酒好きだから酒屋に向いている」と言い、河内士族の司馬朗を「デブだから肉屋にふさわしい」と言い放ったというのだ。

あまりにも痛快だったから、漢の臣下たちはみんな禰衡を称賛した。
荀彧、陳群、司馬朗、これらはすべて曹操の協力者たちだ。
祢衡が彼らを罵ったことで曹操の面子は丸つぶれになったが、献帝は喜んだ。
そして「忠漢」を口にしている名士たちも喜んだ。

孔融はすぐに献帝に手紙を書き、禰衡を褒め讃えた。
こうなると曹操も禰衡を無視できない。
もし禰衡の任官を拒否すれば、曹操の漢への忠義が疑われる。
忠漢の大臣や名士たちが推挙しているのに、曹操が無視したとなれば、反漢のレッテルを貼られるだろう。

しかし、もし禰衡を任官すれば、禰衡が正しいと認めることになってしまう。
つまり、荀彧、陳群、司馬朗の面目は丸つぶれだ。
これは曹操を困らせた。

(四)曹操を罵る

しばらくして、曹操は祢衡を呼び寄せる。
禰衡はついに高官に任命される時が来たと思った。
しかし、孔融が言った。
「これはチャンスだ。
謁見を拒否し、曹操の悪口を言いふらすんだ。
そうすれば君の名声はさらに高まる」

そのニュースはまたたく間に広まった。
荀彧や陳群を罵った祢衡が、なんと曹操への謁見を拒否したのだ。
気骨のある人物、真の男として再び名声が上がった。

曹操は仕方なく再度禰衡を招待。
孔融に相談すると「行け」ということだったので、今回は行くことにした。

しかし、到着してみると、禰衡に与えられたのは鼓吏という下級の役職だった。
曹操側はその理由を発表した。
才能を基準にして人を用いる「唯才是挙」と言う観点で調査した結果、禰衡には三つの長所が見られた。
それは文章が上手いこと、口が立つこと、鼓を打つのが上手いことだった。

ついては、彼をゆくゆくは文官として昇進させるつもりだが、現在は空きがなく待つ必要があるので、まず鼓吏として働いてもらう。
その間に才能が認められれば、昇進のチャンスがあるという説明だった。
このように曹操側は適材適所を主張した。

孔融は禰衡に言った。
「これは侮辱だ。我々を侮辱するなら、やり返すまでだ」

数日後、曹操が宴を開いた。
禰衡は鼓吏の一員として出演することになっていた。
演出の日、他の鼓吏たちは制服を着ていたが、禰衡だけが普段着だった。
幹事が着替えを指示したところ、禰衡はなんと、すべての賓客の前で服を脱ぎ、一糸まとわぬ姿になって着替え始めた。
極めて不作法な行為であり、曹操の面子は丸つぶれになった。

曹操は仕方がなく苦笑して言った。
「わかった、君の勝ちだ。
鼓吏に任命したのは君を辱めるためだった。
今度は逆に辱められてしまったな」

この一件は大きな話題となり、禰衡の名声がさらに高まる。
すべての反曹操派の義士たちから、禰衡は第一人者と崇められた。
曹操は祢衡がまた何か問題を起こすのではと危惧し、禰衡を劉表の元に遣わすことにした。
こうして禰衡は荊州へ移ることになった。

(五)劉表に嫌われる

一年前、荊州で禰衡は誰にも相手にされなかった。
しかし、いまや天下に名を轟かせる名士として迎えられる。
劉表は荊州の名士たちとともに祢衡を歓迎する。
名士たちの中には、
「当時、あなたが荊州にいた時から、たいした人物だと思っていた。
時期を見てあなたを弟子にとりたいものだと思っていた。
今ではあなたが許昌で学識を高められたので、むしろ私たちがあなたの弟子になるべきだと思う。ぜひ指導を仰ぎたい」
と言う者もいた。

禰衡はこのように迎合する人々を内心、鼻で笑ったが、名声というものの力を実感した。
自分の名をいっそう高めようと決意を固めた。

禰衡は都の名士たちを酒飲み、大飯食らいと罵り、高潔を装う。
劉表の宴会や会議には一切出席しない。
「曹操の顔も立てなかった私が、劉表ごときの機嫌を伺うわけがない」と示した。

そして、さらに破天荒な行動に出る。
劉表が献帝に上奏文を送るため、多くの名士たちを集めて素案を作らせた。
その完成後、禰衡にチェックを依頼したところ、禰衡はその文書を見るや、その場で破り捨てたのだ。

劉表と名士たちは祢衡の行動に面目を失った。
しかし、禰衡はすぐに筆を取り、新しい文章を書き上げて劉表に渡した。
禰衡の上奏文は非常に優れており、他の名士たちは口をつぐんだ。
文才は確かに抜きん出ていた。

この出来事によって、禰衡は名声をさらに高めた。
同じようなやり方を繰り返して名声を上げ続けた。
しかし、劉表は禰衡の振る舞いに我慢ならなくなり、名士たちも禰衡から遠ざかるようになる。
劉表は禰衡を彼の麾下の統帥、黄祖の元へ異動させた。

(六)黄祖を辱める

黄祖は前線の軍事基地を担当していた。
彼は水軍を率いており、しばしば船内でで十日や半月と滞在している。
船内にはほとんど文官がいなかったため、禰衡は文官の筆頭として、すべての文書作業を担当。
禰衡の文才は非常に優れており、黄祖は彼を絶賛した。
黄祖の息子とも、兄弟と呼び合うほどの親しい仲になる。

ある日、黄祖の息子が賓客を招いて宴会を開き、禰衡を招いて文才を披露させようとした。
黄祖の息子は「鹦武」を題材にして一篇の文章を書くように禰衡に依頼。
禰衡はすぐに筆を取り、一気に華麗な文章を書き上げる。
賓客たちはその才能に驚愕し、禰衡の名声はさらに高まった。

禰衡は乱世において、文人としての実力は必須であるが、名声がいっそう重要であることを知っていた。
名声がなければ、どれだけ実力があっても世に出ることはない。
だからこそ、常に名声を保ち続ける必要があった。

ある日、禰衡は黄祖に対して破天荒な態度を取り、彼を「おいぼれ」と罵った。
黄祖は激怒し、禰衡を殴ろうとしたが、禰衡は火に油を注ぎ、さらに罵り続ける。
禰衡は事件がエスカレートすることで、自分の名声が高まると確信していた。
この事が世間に伝われば、名士である彼が水軍統帥の黄祖に立ち向かったとして、剛毅な人物という評価が得られるはずだった。

その時、黄祖が怒鳴り声を上げた。
「左右の者、こやつを引きずり出して、斬れ!」
すぐさま剣光が一閃し、禰衡は自分の頭が飛んでいく感覚がした。
黄祖の驚く顔が見えた。
そして黄祖の息子が駆け寄ってきて禰衡を助けようとしたが、もう遅かった。

禰衡には自分を斬った人物が見えた。それは兵士ではなく、黄祖の側近の一人だった。名前は知らないが、禰衡に罵られたことを恨んでいた者に違いない。
その側近には、黄祖が禰衡を殺せと言ったのは一時の気の迷いだと分かっていた。
だから黄祖が命令を取り消す前に、すぐに剣を抜いて禰衡を斬ったのだった。

祢衡、わずか二十六歳の生涯であった。

出典:抖音「星彩她爹讲三国」"士族生存法則"(作者:張叡氏)

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