【三国志】俺たちの生存戦略 「廖化」
廖化は、三国志演義では黄巾賊の残党扱いされたり、蜀の人材不足の象徴のような扱いをされていますが、史実上は、有力氏族の出身であり、大きな武功を立てています。
三国志専門TikToker、張叡さんの作品からの抄訳です。
(一)呉に降る
廖化は荆州南郡の士族だ。
荊州南部は関羽が支配していたから、廖化の一族は関羽に食糧や木材、鉄、兵士を供給していた。
その見返りに、関羽は廖化の一族を役人に任命する。
廖化は文章に長けていたので、高級文官にあたる主簿として関羽に仕えた。
関羽が呂蒙のだまし討ちによって斬られると、廖化は精鋭一万を率いて益州に逃げようとする。
が、荊州と益州の境である秭帰を、陸遜がすでに占領しており、廖化は精鋭一万もろとも陸遜の捕虜に。
荊州の官員は片っ端から捕らえられ、降伏か死かの選択を迫られる。
廖化は潘濬、郝普、糜芳、士仁とともに降伏し、孫権の臣下になった。
孫呉の最大派閥は江東派と淮泗派の二つだ。
廖化は江東人でも淮泗人でもないから、廖化が受け入れられることはない。
潘濬や郝普などは、一見すると高官に任命されたように見えるが、実際はお飾りに過ぎない。
孫権の勢力下で実権を握れるのは、江東派と淮泗派だけなのだ。
廖化の故郷である荊州南郡の出身者には、馬良、馬謖、向朗、楊儀、馮習、高翔、輔匡、向寵がいる。
荊州派の代表たる諸葛亮が最も信頼を置いているのがこの南郡系で、諸葛亮自身も半ば南郡系と言えた。
だから、廖化が前途を拓くには、東吳にいてはならず、蜀漢に戻る必要があった。
だが、いつ戻るかが問題だった。
荊州派は故郷の荊州を取り戻すように必ずや劉備に求めるだろう。
廖化はその時を待ち、劉備が荊州に攻め入った暁に帰還することを心に誓った。
(二)劉備勢に復帰
劉備が出兵するまでは、引き続き孫権に仕えるしかなかった。
翌年、劉備は皇帝を称するが、出兵しなかった。
翌々年の七月、劉備がついに出兵した。
廖化は自分が死んだと装って、老母とともに秭帰へ逃げた。
そこは荊州と益州の境界であり、かつて無数の荊州人が捕らえられた場所だった。
廖化は秭帰で劉備軍と出会った。
廖化を見て劉備は大喜びした。
南郡系の将たちも歓喜に包まれた。
南郡系の忠義が示されたからだ。
この時、劉備軍の中核は南郡人だった。
馬良が沙摩柯の兵、一万を率い、馮習が大督を務め、輔匡が別部督を務めている。
忠義の模範を示した廖化を、劉備は宜都郡太守に封じる。
これは、荊州の宜都を攻略した暁には、廖化を太守にするという意味だ。
名ばかりの職位だが、それでも太守級の地位だ。
廖化は、官たるものは兵を掌握しなければ無力だと考えた。
だから別部督として軍隊を率いることを望んだ。
劉備はこれを承諾し、文官から武官に転じた。
(三)諸葛亮に仕える
が、劉備は夷陵の戦いで敗走して亡くなる。
劉禅が即位し、多くの臣下が新たに重用される。
廖化は諸葛亮の丞相府の参軍となった。
リーダーの側に仕えることが出世の近道であることは明らかだった。
荊州派には四大家族がある。
龐、馬、向、習家だ。
龐家にはもう人材はおらず、今は馬家に勢いがあった。
諸葛亮は馬謖を息子のように可愛がった。
馬謖も廖化も同じく丞相府の参軍だったが、馬謖は雲の上の人物といってよかった。
諸葛亮は馬謖を大督に育てようとしていた。
そして馬謖を街亭督に任命。
馬謖を街亭の戦いに勝利させ、名声を高めて諸葛亮に次ぐ立場に引き上げる予定だった。
しかし、馬謖が敗北。
廖化は広武都督や陰平太守を務め、一貫して武官の道を歩む。
(四)諸葛亮の死後
諸葛亮が亡くなると、荊州派のリーダーの座をめぐって、南陽系と南郡系が激しい争いを繰り広げた。
結果、南陽系のリーダーの魏延が死に、南郡系のリーダーの楊儀も死亡。
権力を握ったのは蒋琬だった。
彼は南陽系でも南郡系でもない。
だから南陽系と南郡系に圧迫を加えた。
もしも丞相府に留まっていたら、楊儀と共に不幸に見舞われるか、蒋琬に抑圧されていたに違いない。
廖化はそう思うと冷や汗が出た。
四年後、蒋琬は大司馬となり、さらに権勢を強める。
この年、雍州刺史の郭淮が、広武太守と南安太守を差し向けて進攻。
廖化は左右から挟撃を受けた。
廖化は彼らを撃退するだけでなく、広魏太守を討ち取る大戦果を挙げる。
見事な戦いだったが、何の賞賛も与えられなかった。
蒋琬の後釜になったのは費禕だ。
費禕は非常に狡猾な人物だった。
費禕は荊州派に属すると同時に、彼の家から劉璋の母親を出している関係で、東州派にも顔が利いた。
そして費禕は蜀漢の政治の頂点に立つ。
彼は劉禅を操って蜀漢を動かせるほどの影響力を持った。
が、劉禅がそれを甘受するはずはなかった。
劉禅は姜維、王平、馬岱などを支援し、特に姜維を用いて費禕を牽制。
廖化は姜維の部下として重用された。
劉禅と費禕の矛盾は大きくなるばかりだった。
そしてある日、費禕は刺殺された。
費禕を失った荊州派は諸葛瞻を担ぎ上げる。
しかし若い諸葛瞻では姜維に対抗できず、荊州派の勢いが低下。
姜維の力が強まっていく。
(五)晩年の廖化
それから数年後、廖化は右車騎将軍に昇進。
假節遥領并州刺史、中郷侯となる。
「右」が付くとはいえ、車騎将軍といえば張飛と同じ官職だ。
やがて、新たな問題が勃発する。
荊州派が再び台頭し、諸葛瞻が朝政を統べようとしていた。
姜維は巻き返しを図って再び北伐を求める。
しかし、蜀漢の民衆は疲弊しており、北伐は支持されなくなっていた。
廖化が忠告したものの、聞き入れられず、姜維は北伐を強行。
再び鄧艾に敗北したので、姜維は完全に立つ瀬がなくなってしまった。
荊州派は姜維を召還して、彼の軍事権を剥奪しようとした。
姜維は殺されることを恐れて帰還せず、軍を率いて屯田を始める。
屯田という名の避難だった。
廖化は姜維と行動をともにするしかなかった。
その後、諸葛瞻が戦死し、蜀漢が滅亡したとの知らせが届く。
廖化は姜維と共に魏の将軍、鐘会に降伏。
姜維は鐘会の野望を見抜き、彼を益州で独立させようと画策。
姜維はもし鐘会が独立したら、鐘会を倒して自ら益州の主君になるつもりだった。
廖化は姜維の無謀な計画に付き合いきれず、離脱して劉禅の元に戻る。
司馬家は鐘会を警戒していたから、鐘会を始末し、姜維も落命。
廖化は同郷の宗預と共に、劉禅に従って洛陽へ向かう。
蜀の運命を見届けるかのように、途中で病に倒れて生涯を閉じている。
出典:抖音「星彩她爹讲三国」"士族生存法則"(作者:張叡氏)