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電車にて、若者のこれから

「やっぱり教育が大事なんだよね。」
「うん、だね。」
「俺なんか子供のときに一通りの習い事やらせて貰ってたから、今思えば本当親に感謝しかない。」
「俺も同じ全く同意見。本当ありがたいわ」
「なんだかんだで、毎日何かしら、やってたからな~」
「なんかでも、練習とか、しんどかったなー」
「これ?(ピアノを弾くジェスチャー)」
「うん、あと水泳もやってたし」
「今になってさ、やっとわかったけど、将来その中から選択できるから、
ありがたいわ、
子供にはやらせたいよね、それにはやっぱお金って話だよね(笑)」
「そうだなー、でも、ああゆうのって、子供の頃にはわかんないだよな、
あなたの将来のためになるんだよ…なんて言っても野暮でしょ(笑)
だから本当感謝だよ、自分もやってあげたいわ」
「やっぱスポーツはやらせたいよな、小学4年らしいよ、その時期が一番発達にいいって」
「へぇー」
「おれ、ちょうどその頃、サッカーと野球両方やってたから、だから今でもどっちもできるもんな」

そんな、大学生くらいとの会話。
電車が駅に到着して、片割れが降車していきました。

ここで、私の話をします。
私は思うように教育を受けられなかった人です。
自ら不登校になり、受けなかったがという側面もありますが、それだけではないと思ってます。
私は子供の頃にピアノと習字を習わせてもらっていました。
習字は6年くらいやったけど、ピアノは3年にも満たなかったです。
小学3年生のとき、電子ピアノを買ってもらいました。
たしか十七八万ぐらいだったんじゃないかな。
そんな設備投資までして、習わしてくれたピアノに対しても、母親のスタンスはとても消極的だったように思います。
練習を促すことは言わなかったし、私が先生の厳しさに悩んでいたことも知らないまま、習い始めたのが遅いことに悲観的な発言をするような人でした。
結局は担当の先生の厳しい指導が苦手になってしまい、辞めることになります。
母は、その後も私が何かをやってみたと言う度に、
「あの時高いお金をかけて買ったピアノをやめてしまったのに、今度はちゃんと続けられるの」
と懐疑的な反応を示すようになります。
母のこの懐疑または消極的反応は、幼少期から度々見受けられました。
また、学校を不登校になったあとの、進路のことについても、真剣に取り合ってもらえなかったと記憶しています。
何かに進もうとするとき、応援してくれることはなく、少しでも後退の意思を示すと、即座に「じゃあ、やめにしましょう」を引き下げられてしまうのです。

私はあの時、なぜ辞めたいのかを聞いてほしかった。
もう少し続けてみたら、と言ってほしかった。
嘘でもいいから、上手になったねと言ってほしかった。


きっと、電車であの会話をしていた若者たちは、いい父親なります。
ということは、この世に幸せな子供を増えるってことです。

私は子供を持つことを前提に、あのよう会話は絶対にできないです。
子供は、きちっと教育を受けた人が、自身が親から引き受けたノウハウに基づいて育てるべきだと思います。

私にその役割は、割り当てられていないような気がします。


そんなことを今日は考えました。

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まゆ
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